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農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

目線の揃う需要者との連携こそが食文化を守る  | 農業経営者 6月号 | (2009/06/01)

【(有)木村農園 代表取締役 木村憲政(愛知県稲沢市)】
経営者ルポ 愛知県は、今や貴重な食材となってしまった金時ショウガによる「はじかみ」の残された産地である。焼き魚のツマ物野菜として使われるはじかみは、人工着色された安い中国産の加工品に押され、この十数年で国内生産が激減してしまった。現在の市場価格では生産コストをまかなえないからだ。そんなはじかみを残していくため、(有)木村農園の木村憲政は、さらなる品質の改良とマーケティングに取り組む。

悪貨が良貨を駆逐する



風土に根ざした様々な食材と食文化が各地に受け継がれている。京野菜や加賀野菜などは、その代表例であろう。山形の赤カブ漬け、かぶら寿しや千枚漬けにするカブ、守口漬けの守口大根。菜っ葉、大根、胡瓜、瓜、茄子、大豆、枝豆等々、地域の在来種が固有の料理法とともに受け継がれている。しかし、すでに絶えてしまった食材や食文化も少なくない。

伝統的な食材のなかには、単に食味の高さだけでなく、彩りとして和食文化の美意識を表現するのに欠かせないものとして珍重されてきたものもある。「はじかみ(椒)」はその代表例といえるだろう。はじかみとは、同じ薬味のサンショウを指すこともあるようだが、今回紹介するのは金時ショウガの若芽である。端を噛むからはじかみなのかと思ったが、端が赤いことから「はし赤み」と呼ばれるようになり、それが転じてはじかみになったという説がある。また、その形状が弓矢の矢に似ていることから「矢生姜」という字を当てて「はじかみ」と読ませることもある。そして、今回紹介する金時ショウガの新ショウガは、色の白い「谷中ショウガ」とは別品種である。

世界中でショウガは薬味として使われているが、それは根ショウガだけ。軟化栽培して食材にしたのは日本だけの食文化である。

人工的な着色ではなく、素材そのものの真紅の彩りで魚料理を飾る金時ショウガのはじかみは、調理人の粋を感じさせる。しかし、このはじかみを生産する農家は、伝統産地である愛知県でもすでに14〜15人しかいない。木村憲政(62歳)は同県内でも4人しかいない専業のはじかみ生産農家のひとりである。

伝統野菜が現代に息づいていく条件とは何なのだろうか。個々の家庭に調理法や食文化が受け継がれていることもさることながら、その食材の意味を知り、食文化を商業化する事業者や職人の存在が欠かせない。しかし、そうした食文化を受け継ぐ担い手たちが、そのこだわりを捨ててしまえば、高級食材であるがゆえに消え去っていくことになる。愛知県の金時ショウガのはじかみも、そんな運命をたどってきた野菜のひとつである。

同じ品質のはじかみを人件費の安い中国で作って輸入されるというのであれば、生産者にとって悔しくともまだましである。だが、本家本元とは似ても似つかない人工着色された加工品が、圧倒的に安い価格で大量に流入し、それを食の職人たちが選んでいく。すでに若い板前のなかには、本物のはじかみは茎そのものが真紅の色合いであることを知らない者がいるかもしれない。その結果なのか、愛知県のはじかみ生産は今や風前の灯のような状況に追い詰められている。まさに悪貨が良貨を駆逐しているのである。

一般的にいえば、安価な商品が出てくることによって、かつては特別な人々だけの食材であったものが大衆化していくという過程がある。それ自体は、一般的には望ましい変化ともいえる。大衆化によって本物への関心も高まるのが普通だからだ。しかし、はじかみに関しては粗悪な加工品が本物を滅ぼしてしまいかねないのである。

粗悪な加工品に負ける悔しさ



木村は高校卒業後の就農以来、はじかみ作り一本でその農業人生を続けてきた。父の代に始まった木村家のショウガ作りは、木村が入ってその分だけ生産量を増したが、木村は一貫して大量生産よりも高品質を目指してきた。そのせいで就農以来、木村家のショウガ作りは文字通り儲かる農業だった。市場に出荷しても30本1束で千数百円から数千円という相場が続いていた。

しかし、転機が1990年代前半に訪れた。中国からの加工品が圧倒的な量で輸入されるようになり、それまでの売上が半減してしまったのだ。
(以下つづく)
※記事全文は農業経営者06月号で
Posted by 編集部 | 12:30 | この記事のURL | コメント(235) | トラックバック(0)
農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

自ら選ぶ道、困難も夫婦ならさらに面白し  | 農業経営者 5月号 | (2009/05/01)

【野菜農場叶野 叶野幸衛(山形県鶴岡市)】
経営者ルポ 山形県庄内地方は、稲作地域にあって水田はわずかしかない。他人から見ればハンデと思われる経営条件にいればこそ、畑作農家として成長した叶野幸衛。その農業経営者としての生き様は、誰に頼まれるからでもなく、自らやりたい道を疑問なく突き進み成功する経営者の典型的な姿ともいえる。

「そこに山があるから」



山形県鶴岡市(旧表記では東田川郡藤島町)にある叶野幸衛(57歳)は、自宅の玄関先から月山の頂上まで全行程を歩いて登ったことがある。夜中の12時に出発し、頂上に着いたのは夕方の5時。約17時間かかった。雪のない季節ならもっと短時間かもしれないと叶野は言う。庄内農業高校定時制4年の春、スキーにテント、それに数日分の食料など60kgの荷物を背負っての単独行だった。

なぜ、そんなことをしたのかを尋ねると、叶野はとぼけた顔をして、でも少し嬉しそうに言った。 「やって見たかったから」

英国の登山家ジョージ・マロリーが、なぜエベレストを目指すのかを問われて、「そこに山があるから」と答えたという逸話がある。他人から見れば、およそやろうと思わないことに一所懸命になり、そしてそれを達成した者に、人は拍手を贈る。そこに人生のロマンを感じるからだろう。

人がこの道と定めた人生を歩むことも、ただ頂上を目指すことと同じなのではあるまいか。経営者になることもまた同じである。

人が経営者として何事かを始めるのは、ただ何事かを実現したいと思えばこそのことである。誰かに頼まれるからではない。ただやりたいからやるのだ。事業である限り利益は必要であるが、彼にとってそれは目的というより、夢の実現のための手段であり、結果に過ぎない。むしろ、そんな強い思いを持つ者であればこそ自ら学び、また、そんな彼には人の助けも与えられるものなのだ。叶野の農業経営者としての人生にはそれが見える。

初めてのジャガイモ作り



筆者が叶野に始めて会ったのは、1995年の7月。旧藤島町内に住む本誌の読者グループが開いた集まりの時だった。庄内平野の典型的な水田地帯である同地域。集まったメンバーは水稲あるいはそれに園芸を加えた経営の人ばかり。そのなかにひとり、叶野だけが羽黒山の山中に開かれた畑で野菜を作る畑作農家だった。

驚いたことに、同じ町内の事業的農家でありながら、叶野はほかの人々と親しく口をきくのはそれが初めてだと言った。叶野は決して人を拒むような人物ではない。彼の住む集落がかつて別の農協に属していたことや、作目の違いもあるのかもしれなかった。それより、ひとりでもわが道を行くという、強い独立自尊の精神が人を遠ざけていたのかもしれない。

その席で叶野はポテトハーベスタの導入について相談に乗ってほしいと言ってきた。当時、筆者は府県での北海道型体系による契約ジャガイモ作りを推奨していたからである。叶野が得ていたポテトハーベスタに関する情報は、本誌に紹介される記事や広告だけ。それを頼りに北海道のメーカーからカタログは集めていたが、ポテトハーベスタなど見たこともない。取引している農機具店からは、サツマイモ用に販売され始めていた松山(株)のポテカルゴをテストしてみようと勧められているという。

だが、今でも府県の農機店では、大型体系のポテトハーベスタに関して知識のある店などほとんどない。ポテカルゴで4haのジャガイモの収穫作業体系をどうやって組み立てるというのだ。作業能率の限界はともかくとして、その後のジャガイモの搬送の問題は考えに入っていないのだろう。

「茨城に北海道のハーベスタを持っている人がいます。それを貸してもらうように頼むから、ともかく頼んでいる機械は止めるべきです」

それがその時の筆者の助言だった。
(以下つづく)
※記事全文は農業経営者05月号で
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農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

成田からアジアの食卓へ
海外から始まった宅配事業  | 農業経営者 4月号 | (2009/04/01)

【(株)生産者連合デコポン 井尻 弘二(千葉県成田市)】
経営者ルポ 愛媛県の柑橘農家に生まれた井尻弘は、農業改良普及員を務めるうち、農家に本当に必要な指導とは「作ることよりも売ること」だと気付く。公務員の職を捨ててまで井尻が身を転じた先は、野菜の流通販売の世界。思いを共有できる千葉県の農家と生産者連合「デコポン」を設立し、海外への宅配も含め、年商10億円に迫る事業を育てるまでになったが、それを支えたのは、夢を追い続ける井尻と農家との強い絆だった。

香港とシンガポールの家庭に日本の農産物を届けるわけ



株式会社生産者連合デコポン。その社名がなんともユニークだ。

「面白い名前でしょ。それが狙いです。わが社の経営理念の第一は“楽しい農業の実践”。農業が面白くなる、農業を面白くすることです!」

代表取締役の井尻弘は、そう言って元気よく笑った。でも、千葉県にある会社なのに、なぜデコポンなのだろうか? 

「僕は愛媛の柑橘農家の息子です。まだマイナーな新品種だったけど、愛媛で生産が広がり始めていたデコポンは、見かけは悪くても中身はおいしい。努力して有機野菜作りに取り組んでいる農家の生産物をお客様に届けるという、我われの活動にとってもぴったりの社名なのです。それに、柑橘のデコポンが有名になっていけば、わが社の名前も覚えてもらいやすいと思ったんですよ」

デコポンは、生まれは1961年でも気持ちは28歳ですと笑う井尻の、大真面目な茶目っ気から生まれた社名であり、その元気が同社を育ててきた。そんな同社の事業を象徴するもののひとつが、海外への宅配事業である。

井尻が千葉県内の有機農産物を引き売りで売ることから始まった同社は、1993年4月の設立時には有機農産物を専門に扱う小売業、外食業向けの卸が業務の主体だった。設立早々、スタッフの一人が香港に旅行し、そこで出会った現地の日本人駐在員から「野菜を送ってもらえないか」と頼まれたのがことの始まりになった。同社は今でも卸業務が事業の主体。最近までは国内から宅配の注文を受けても、宅配事業の取引先であるオイシックスに紹介するのを基本にしていたくらいだ。

お客さんがいるのに、農業や農家が置かれている制約から、そこに直接品物を届けることができなかった農業界。それを打ち破ろうと始めたのがデコポンなのだ。社内には海外宅配に懐疑的な意見もあったが、井尻の「面白いじゃないですか!」で結論は出た。
当時、香港では、農薬を使った野菜を食べて人が死ぬという、日本では想像もつかない事件が実際に起きていた。「毒菜」という言葉で恐れられ、現地に駐在している日本人の間には、日本の野菜を手に入れたいという切実な要望があったのだ。

94年、8軒の駐在員家庭からの注文を受けて始まった香港向け宅配は、現地の日本人社会に口コミで一気に広がった。その後、SARSウイルス事件や経済危機による香港市場の縮小もあったが、現在でも約350戸、さらにシンガポールの約250戸の家庭にも、2週に1回のペースで宅配されている。

国内で3000円の宅配パックが、香港に送ると運賃や現地の事務手数料などを含めて790香港ドル(約9400円)、シンガポールでは170シンガポールドル(約1万250円)になる。しかし円高が進んだ現在でも、特に注文が減るということはない。
(以下つづく)
※記事全文は農業経営者04月号で
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農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

私が売るのは、イチゴではありません  | 農業経営者 3月号 | (2009/03/01)

【(有)ストロベリーフィールズ 遠藤健二(茨城県下妻市)】
経営者ルポ 「新規就農」から10年目の遠藤健二は、最高品質のイチゴを栽培する生産技術者である。しかし、遠藤は「生産者」と呼ばれることを嫌う。彼はイチゴではなく遠藤オリジナルの「商品」を作っているからだ。加工品ではなく、イチゴそのものでいかに「商品」を企画するか。そこに遠藤の農業経営者としてのセンスが示されている。

非農家出身の新規就農者が最高レベルのイチゴ生産者に



本誌2月号の裏表紙、国立ファームの広告「農業改革・国立ファームNEWS」を覚えておいでだろうか。紅白のイチゴの写真とともに、同社が12月から新宿の高級デパートでホワイトイチゴを販売開始した旨の紹介がなされている。小売の初値は紅白18粒入りで8400円とある。国立ファームに問い合わせてみると、その後も連日完売の人気商品になっているという。このホワイトイチゴの生産を担当しているのが、今回紹介する遠藤健二である。

遠藤は、楽天の様々なイチゴ販売部門で売れ筋ランキング第一位の座を維持している人物でもある。非農家の出身で、いわゆる「新規就農者」だ。そんな遠藤が、「就農」から約10年目にして最高レベルのイチゴ生産者になり、商品開発やマーケティングにおいてもリードしているのである。

バブルに背を向け、生き方を模索した学生時代



遠藤は、本誌執筆者の一人である宮城大学大学院の大泉一貫教授とも因縁がある。仙台で農業とはまったく関係ないサラリーマンの家庭で育ち、1986年に東北大学農学部に入学。3年生で同大学の助教授だった大泉のゼミに入る。それが農業に関わるきっかけだった。卒業後は就職もせず、「大泉先生のかばん持ち」をしていたと遠藤は笑う。

大学の卒業年次は90年。まさにバブル真只中の好景気が遠藤の学生時代と重なっていた。望めば就職は公務員でも民間企業でも選り取りみどりだっただろう。

しかし、そんな世間の気分に馴染めなかった。浮かれ立つ世のなかで自らの居所を見いだせず、これからの人生に対しても目標を持てずにいた。進むべき道を模索しようと、休みには米国や中国などをバックパッカーとして歩き回った。海外で出会う同世代の若者たちの確固たる目標や、人生に対する意思を見聞きするにつけ、自分自身や日本人のひ弱さを痛感させられた。なかでも、北京で出会った中国人学生の言葉には大きな衝撃を受けた。

中国の学生は、エリートであっても(あるいはそうであればこそ)将来の勤め先は国家によって指定されてしまうと話していた。そんな中国の学生と「何のために学ぶのか? そして自分はこれから何をすべきなのか」という問いについて議論になった時のことである。遠藤が指摘した中国の国家や社会の問題を認めつつ、中国の学生は毅然としてこう言ったのだ。

「そんな国だからこそ国を変えるために自分は学び、そして国を変えていく」

以来、遠藤の耳の奥にはその中国人学生の言葉が残っていた。そして、中国を旅してから2カ月経った89年6月、北京で天安門事件が起きた。その様子は全世界に映像として流された。天安門広場で一人両手を広げて戦車に立ち向かう若者の姿は、世界の多くの人々に衝撃を与えたはずだ。遠藤が中国人学生と出会い、議論した場所は、今まさにテレビに映し出されている天安門広場。戦車の前に立つ青年があの時の学生とダブって見えた。目標も目的もなく、成り行きに任せて就職するという人生の選択肢は、もう遠藤にとってあり得なかった。
(以下つづく)
※記事全文は農業経営者03月号で
Posted by 編集部 | 12:30 | この記事のURL | コメント(10) | トラックバック(0)
農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

受け継がせたいのは、誇りごと。  | 農業経営者 2月号 | (2009/02/01)

【西山農園 西山直司(愛知県田原市)】
経営者ルポ 農家一戸あたりの販売額が日本で最も大きい地域といわれる愛知県渥美半島で、 敢えて省力化の進んだ葉菜類を選ばず、生食用ダイコンの生産に力を入れる西山直司。> 高校時代から実学としての農業に触れ、大学卒業後に父から経営を継承すると、 工夫に満ちた工程管理や商品開発によって、季節性のあるダイコン経営を安定化させていった。

かつて松も育たたなかった原野を開拓した入植初代の祖父と、二代目の父から受け継いだのは、 優れた経営感覚だけでなく、開拓者としての誇りとチャレンジ精神だった。

先代を超えてこそ真の後継者となる 「売家と唐様で書く三代目」 と江戸川柳はいう。

書を学ぶ暇もなくひたすらに働いた初代。それを受け継ぎ家業を発展させた二代目。財を成した二代目の庇護の下で教養を積み、粋人として育った三代目。その三代目が、祖父や父が書くこともできなかった洒落た唐様の文字で「売家」と張り紙をする。 いかにもありそうな話である。

それは家業の継承だけでなく、戦後の困難のなかで豊かな国を作り上げた世代の三代目ともいえる現代日本人、あるいは新開地に入植した農家の後継者が、入植世代の開拓精神を忘れ、未来を危うくさせる姿にも重なる。

欠乏の時代ならば、貧しさは志を持った人々を強くする。しかし、労せずして与えられた豊かさのなかでは、伸びる力を持った者までもが安楽さに溺れ、夢見る力さえ萎えさせてしまう。

戻し続け、作り続けてきた土。まさにそんな「土」に象徴される、先人が未来に託した遺産の恩恵を享受するだけなら、それは怠惰な資産管理人に過ぎず、後継者と呼ぶに値しないのだ。受け継いだ誇りや理念を守りながらも、先代を超えて新しい時代と経営を創りだす者だけが、真の後継者と呼ばれるべきではないだろうか。

今回の主人公は、農家一戸あたりの販売額が日本で最も大きい地域といわれる愛知県渥美半島で、ダイコン作りに取り組む西山直司(46歳)である。

ハウス園芸による野菜や花卉、露地野菜や畜産。今でこそ渥美半島は豊かな農業地域である。 しかし、コメ作りに適さない洪積台地の農業は、70年代に入るまで貧しさのなかにあった。1968年に豊川用水が通るまでは、天水頼みの農業だったのである。昭和初期に始まった、水もなく松も育たない痩せ地への入植。食糧難だった戦後の一時期を除けば、ずっと苦労の連続だった。

田原市六連町一本木(弥栄集落)に入植した祖父・故西山忠雄は、開拓者たちのリーダーとして、早くから農協組合長などの村役に就いていた。その忠雄に代わり、西山家の農業経営を発展させたのは、渥美農高を卒業した当時から経営を任されていた二代目の父・西山作(72歳)である。

さらに作から家業を受け継いだ三代目・西山直司を通して、農業経営と開拓者精神の継承について考えてみたい。

(以下つづく)
※記事全文は農業経営者02月号で
Posted by 編集部 | 12:30 | この記事のURL | コメント(25) | トラックバック(0)
新・農業経営者ルポ

家族でできるからこその農業  | 農業経営者 1月号 | (2009/01/01)

【(有)いちごやさん 佐野光司(静岡県富士宮市)】
経営者ルポ 静岡県の富士宮市で(有)いちごやさんを経営する佐野光司。
地元にある4店舗の大規模量販店に「いちごやさんのイチゴ」という ポップ入りの販売コーナーを与えられ、そこに日配で朝取りイチゴを出荷する。
摘み取り園を兼ねる直売所という経営スタイルの実現は、13台のイチゴの自動販売機が始まりだった。

消費者の喜ぶ顔を見るために完熟イチゴを地元に提供



「お目にかかってお話しするのは良いけど、私なんか取り上げるに足りる存在ですか?」

少し照れ臭そうに筆者を迎えた佐野光司(59歳)の顔には、その人柄がそのまま表れていた。実直で控えめで、ひたすらにイチゴ作りに打ち込んできた佐野。自然体で農業に取り組むことで、いつの間にか農協のなかでも最大規模の生産者となり、農協のイチゴ部会会長になっていた。

しかし、そんな佐野も市内各所に置いた自動販売機での直売が伸びていき、さらに地元量販店からの誘いをきっかけにして農協出荷を止めてしまった。農協に出荷するイチゴがなくなってしまったと言ったほうが正しいほど、お客さんの支持があったのだ。

農協出荷に対する不満はあっても、現実に農協出荷を止めるという結論を出すまでには、夜も眠れなくなるほど悩んだ。

そして、現在の佐野は、静岡県の富士宮市で同市内外の量販店や生協への出荷に加え、農園併設の直売所での販売とイチゴ狩りのハウスを経営している。最大13台まで増やした自動販売機も今年からは廃止した。現在の生産ハウスは、地床ハウス52a、高設のハウス20aの計72a。イチゴの食味は地床が勝ると考える佐野は、食味の良さを重視する販売用には地床のハウスを使う。一方、摘み取りの観光果樹園は、冬の寒いなかでイチゴの香りと摘み取りの楽しさを楽しんでもらうためのもの。そのためには高設栽培にすべきだし、車椅子でも入れるようにと畝間も広く取っている。

量販店や生協へは、決済こそ市場業者を通すが、朝取りにした完熟のイチゴを佐野が直接納品する。各店舗には「(有)いちごやさんの朝取りイチゴ」であることが写真と共に示されている。

完熟にして出荷するため、棚に置ける時間は限られるし、過熟になればお客さんからのクレームも出る。しかも、スーパーの営業日に合わせて年末年始も毎日出荷せねばならない。しかし、だからこそお客さんの満足度は極めて高いのだ。

さらに、量販店の棚のポップを見たお客さんが摘み取り園に来てくれる。佐野の摘み取り農園や直売所経営にとっては願ってもないことだ。それはお客さんや量販店にとっても価値がある。店にとっては佐野のイチゴ作りだけでなく、佐野という農家やハウスのことをお客さんに知ってもらうことで商品への安心を伝えることにつながる。さらに、お客さんにとっては売り場の棚を通してイチゴの摘み取りという楽しみまで体験できるのだ。お店の棚がイチゴに関するモノとしての情報だけでなく、摘み取り体験というコトの情報までも提供しているというわけだ。

生産者と小売業者が協力することで、産地ならではの最高のイチゴをより多くのお客さんに楽しんでもらうことが実現した。佐野が地元出荷にこだわるのはハウス内で完熟させたイチゴを一刻も早くお客さんに食べてもらいたいから。そして、お客さんの喜ぶ顔を実感したいからだ。収益性もさることながら、それこそが農協まかせの出荷では受けることのなかった生産者としての感激なのである。

(以下つづく)
※記事全文は農業経営者01月号で
Posted by 編集部 | 12:30 | この記事のURL | コメント(39) | トラックバック(0)
農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

私はまだまだ経営努力が足りていない  | 農業経営者 12月号 | (2008/12/01)

【(有)ソメノグリーンファーム 染野実(茨城県板東市)】
経営者ルポ 農業大学校時代、染野実は劣等性だった。しかし、学生時代に優等生だった学生が必ずしも優れた経営者になるとは限らない。劣等性だった染野は関東の土地利用型農業をリードする経営者の一人に成長してきている。そこには父・要の存在があった。

茨城県有数の土地利用型農業法人



茨城県坂東市、旧地名では猿島郡猿島町。そこに昨年の実績で水田30ha、畑47ha(麦20ha・陸稲10ha、ソバ10ha、ジャガイモ7ha)を生産し、作業請負90haも行なう(有)ソメノグリーンファームがある。生産するコメは全量、給食業者を中心にキロ350〜400円で販売。昨年の売り上げは約1億1400万円。代表者の染野実(48歳)と経理などを担当する妻・千種(46歳)。社員は7年間勤めている加藤一昭(43歳)、5年目の片岡孝介(25歳)の2人。そのほか、年間の臨時雇用が約200名。父の要(75歳)、母の千代子(70歳)はもう引退。3人の娘たちは染野の仕事を受け継ぐとはまだ言い出さない。でも、染野は社員の中からこの法人を継ぐ者が出てきても良いとも考えている。

ソメノグリーンファームは県内でも有数の土地利用型農業法人であるが、代表者の染野はかつて、茨城県農業大学校の落ちこぼれ学生だった。

国が許しても俺が許さない



少年時代からパイロットになることが夢だった染野は、防衛大学校を受験した。高校時代までは進学校に通っていたが、結果は不合格。学費免除も含めて許された防大受験だった。父・要は2年制の茨城県立農業大学校に進むことを命じ、染野もそれに従うほかに道はなかった。この大学受験の失敗という挫折から染野の農業人生は始まった。

一学年20名。全寮制の農業大学校に入学してみると、「俺は花栽培」「僕は果樹だ」と、すでに同級生たちは具体的な農業への夢を持っていた。目標もなく農業大学校に入った染野は取り残され、そこに居場所を見出せない自分に鬱々としていた。授業をサボり、夜一人で寮を抜け出すことも度々。そんな問題児・染野のために父の要も学校に呼び出しを受けた。農業大学校は出席日数不足のために同級生より卒業が1カ月遅れることになった。第二の挫折だった。

そんな染野は、1980年に20歳で卒業すると、友人たちをまねて、「オヤジ、後継者育成資金を借りて園芸ハウスを作らせてくれよ。無利子で金借りられるんだ」と言ってみた。

「バカ言え、国が金を出してくれても、そんなこと俺が許さネー」

二の句を出せない要の言葉が、染野の現在を育てたとも言える。

(以下つづく)
※記事全文は農業経営者12月号で
Posted by 編集部 | 12:30 | この記事のURL | コメント(368) | トラックバック(0)
農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

イトミミズとイナゴに学んだ経営者  | 農業経営者 11月号 | (2008/11/01)

【すぎやま農場 杉山修一(栃木県塩谷町)】
経営者ルポ たった一人の発見が、世の中に大きなインパクトを与えることがある。新たな発見が誕生する瞬間、人間の信念は拡大する。既存の価値観を突破しなければ、新たな価値観は創造されないからだ。杉山修一という、たった一人の農業経営者が創り出した農場が今、多くの人々を魅了し、自然や農業に対する価値観に影響を与え始めている。信念が拡大するきっかけは、人との出会いや別れ、病気や交通事故など、人それぞれだが、杉山の場合は、見慣れたある風景だった。

農業機械と農薬のスペシャリスト



就農した1977年当時に3haだった圃場面積は、2008年には借地も含め48haにまで拡大した。規模拡大を進めると同時に、数々の農業機械を導入することによって、水稲、小麦、大麦、ソバ、大豆といった品目を2年3作で栽培する効率的な輪作体系を実現してきた。

積極的に導入してきたのは機械だけではない。もともと科学的思考の持ち主である杉山は、農業高校時代に習得した農薬の知識を活かし、最新の農薬をいち早く入手しては、その効果を最大限に活用してきた。外資系農薬メーカーの販売前モニターなども積極的に務めていた。気がつくと、杉山は農業機械と農薬に関するスペシャリストとして、地域の相談役的な存在になっていた。

最先端の農業機械の導入、最新の農薬の活用、大規模な土地利用型の農業経営によって面積も売上も順調に拡大し、自分自身の信念や農業経営の方向性には、何の迷いも疑問もなかった。

アトピー性皮膚炎で有機農業への転換を決意



ところが、である。順風満帆だと思われた杉山は、突然思わぬ出来事に見舞われる。重度のアトピー性皮膚炎が発症したのである。

農薬を散布するたびに、全身が激しい痒みに襲われた。当初はその都度、痒み止め薬の注射を打ち続けていたが、やがて注射の効き目がないほどに症状が悪化してしまった。杉山は「とにかく痒くて苦しかったですよ。農薬の効果はあったけど、こんなに苦しいことを一生続けるなんて考えられなかった」と述懐する。

激しい痒みから逃れるため、杉山は農薬の散布を止め、農薬を散布していないコメを食べた。すると薬物治療を施さなくても、アトピー性皮膚炎は治癒していったのである。この体験に、信じてきた科学的思考は万能ではないことを思い知った。杉山は今でも、すべての農薬の有効性について否定しているわけではない。しかし「自分が食べられないおコメを他人に販売するわけにはいかない」、そう考えた。同時に、長男の真章の就農が決まったこともあり、杉山は除草剤や化学肥料を使わない農業に転換する判断を下したのだった。今から7年前の01年のことである。

(以下つづく)
※記事全文は農業経営者11月号で
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未来は、自分の今日についてくる  | 農業経営者 10月号 | (2008/10/01)

【展望花畑 四季彩の丘 代表 熊谷留夫(北海道美瑛町)】
経営者ルポ 北海道富良野市に次いでフラワーツーリズムの地として広く知られている美瑛町。 その美瑛町で、7年前に「展望花畑 四季彩の丘」を開設したのは、美瑛町農協の理事でもある熊谷留夫。十勝岳連峰を正面に臨む雄大な景観の豊かさに気付かされた彼は、丘陵に花を植え、都市からの観光客を呼び込むことを思い立つ。しかし、当初は周囲を説得してもその価値を理解してもらえなかった。ならば、と立ち上がった熊谷の心中には、美瑛の農業と農産物の素晴らしさを伝えようする、開拓者精神が宿っていた。

農業者が作り出した観光スポット



「丘のまち」と呼ばれる北海道美瑛町。傾斜のきつい丘陵地帯は農業にとって必ずしも望ましい条件ではない。しかし、その風土の中で農家が作り上げてきた農業景観が北海道を代表する観光スポットになっている。

その美瑛でも最も観光客の集まる「四季彩の丘」を経営するのは、約90haの農場を経営する熊谷留夫(56歳)である。同時に熊谷は、北海道上川地域では初めてだったという、農家ペンション「ウィズユー」を1992年から経営している。四季彩の丘同様、冬季間も開業するウィズユーでは、ペンションの窓からの景色と地元食材を使った料理で年間4500人ものお客さんを迎え入れている。

四季彩の丘の年間来場者数は40万人。美瑛町を訪れる観光客約120万人の3分の1が四季彩の丘を訪れている勘定だ。美瑛の観光は夏がメインで冬季間は休業するところが多いが、四季彩の丘には冬の間だけでも約8000人のお客さんが訪れる。また最近は、夏冬を問わず台湾や韓国からの観光客が増えているという。取材日当日は生憎の雨模様だったが、駐車場には観光バスが並び、売店はお土産を求めるお客さんで賑わいを見せていた。また、15分かけて敷地内をコトコトと走るトラクタバス(「ノロッコ号」なるネーミングも洒落ている)に乗った子供たちの楽しそうな声も聞こえてきた。

周囲の理解は得られず独力で事業を始める



四季彩の丘は99年から着手し、2001年にオープン。すべて熊谷が一人で始めた。春にチューリップ、夏にクレオメやリアトリス、秋にはキカラシが咲き乱れる展望花畑と、農産物直売所からなる。約20年前から美瑛町農業協同組合の理事を務める熊谷は、かつて農協にその開設を何度も働きかけた。事業性の大きさだけでなく、ますます農業経営環境が厳しくなっていく中で、観光に訪れた人々の目と心に訴えて、美瑛の農業と農産物の素晴らしさを伝えようと提案したのだ。しかし、理解は得られなかった。
(以下つづく)
※記事全文は農業経営者10月号で
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農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

再建と躍進、すべては社員の力です。  | 農業経営者 9月号 | (2008/09/01)

【(有)大串農園 オーナー 大串謙二 (高知県宿毛市)】
経営者ルポ 文旦、小夏、河内晩柑などの生産・直販をしている(有)大串農園。今期は、収量約550t、売上約2億5000万円を見込んでいる。昨年までは11期連続の赤字で、廃業をも迫られる状況にあったが、同社の社員らが自ら業務改善を進め、起死回生を果たした。1996年の法人化以来の累積赤字も今期で一掃できそうだ。ここに至るまでに、大串謙二と妻・生美、そして大串農園が歩んできた道のりには、経営者のあるべき姿を問う幾重もの山坂があった。

不作がきっかけで開けた創業への道筋



大串謙二(50歳)は、18歳からの3年間を大阪で働き、21歳で故郷に戻った。当時の大串家の生産基盤は約1・2haのミカン山だけ。それでも食べるだけなら何とかなる時代だった。23歳で父から農業を受け継ぎ専業農家になった謙二だが、ミカンだけでは物足りず、オクラやスイカ、ブロッコリーなども作った。

そして25歳の時、一つ年下の生美と結婚する。金銭的に豊かとはいえない家庭で育った2人には、貧乏はしたくないという思いが共通していた。また、謙二の胸中には、いずれ会社を経営したいという夢もあった。

夫婦として初めて農業に取り組んだこの年、文旦は不作だった。農協に出荷したところで、市場で買い叩かれるのは目に見えている。そう考えた謙二と生美は、苦肉の選択をする。文旦を軽トラックに積み、宿毛市内を引き売りして回る事にしたのだ。品質の高い文旦とは言えないものの、お客さんは喜んでくれた。2人はそれが素直に嬉しかった。これが、現在、全国に約1万4000人の顧客を抱える大串農園の始まりである。 (以下つづく)
※記事全文は農業経営者09月号で
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比内地鶏の歴史を創ってきた家族  | 農業経営者 8月号 | (2008/08/01)

【(有)秋田高原フード 代表取締役社長 佐藤信子(秋田県北秋田市)】
経営者ルポ 昨年秋、食肉加工業者による比内地鶏の偽装事件が告発され、メディア各紙を巻き込んだ騒動に発展したことは記憶に新しい。秋田県は急遽、ブランド認証制度の準備を進めたが、それがさらなる混乱を招くことになった。育種改良の努力で市場の7割の顧客を獲得し、安全責任への自覚から、時代に相応しい管理方法を選んだ生産者が、認証制度の名のもとに市場から排除されようとしている。

メディア批判をかわす県の対応が呼んだ災難



まだ産後20日目だというのに、大塚智子(31歳)は事務机の脇に赤子を寝かせて仕事をしていた。5歳と2歳の子供は、夫・大塚智哉(33歳)の栃木の実家に預けた。今、(有)秋田高原フードは創業以来の危機に瀕している。それでも、社長の佐藤信子(57歳)と智子、智哉の娘夫婦、そして14人の従業員たちは、この困難のなかで改めて家族の絆と会社の使命を確認している。

災難は、比内地鶏を偽装した犯罪とその批判をかわすために秋田県がとった対応の結果によってもたらされた。同社は昨年度まで年間8万羽あった生産が半減しかねない危機に陥っている。その食味の高さで評価してくれる外食業者はともかく、スーパーやデパートなど多くの小売業者は「認証」の有無を問題とし、取引を控えるようになり、それが取り扱いの減少につながっている。それでも信子ら家族は、智子の祖父である故・佐藤広一が始めた家業の誇りを守ろうとしている。(以下つづく)
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ファーミング・エンターテイメント  | 農業経営者 7月号 | (2008/07/01)

【(有)農マル園芸・(有)アグリ元気岡山 代表取締役 小川博巳(岡山県美作市)】
経営者ルポ 大学で農業経済を学び、社会福祉団体職員を経て、父から経営移譲を受けた小川博巳。胸中には思索を積み重ねた末に導き出した一つの課題—農業のノーマライゼーション—があった。その理想が結実した岡山県内の農園には、花や野菜の直売所、イチゴの摘み取り園など、多彩な施設が備えられている。来園者が思い思いの時間を過ごす園内には、エンターテイメントに昇化した、新たな農業の姿があった。

良い商品、良い顧客の良循環を生む直売所作り



高い運賃と決して安くはない値段の生産者直売のコメがなぜ売れるのだろうか。産直の購入者は単に美味しいコメを求めているわけではない。農家から直接コメを買うという関係性や農家の人柄あるいはその背景にある自然や風土に触れる満足を買っているのだ。人々は空腹を満たす食糧の供給だけではなく、癒しや自然や故郷への回帰願望を満足させることを農業に求めているのだ。

埼玉県のサイボクや三重県のもくもく手作りファームなどすでに幾つかの農業アミューズメントも存在する。また観光果樹園は果樹産地の観光名所になっている。現代という「過剰の時代」であればこそ、農業には「ファーミング・エンターテイメント」というべき新しいビジネスジャンルが存在する

小川博巳(45歳)は、花を主体に野菜の直売とイチゴの摘み取り園を兼ねた農園直売所を経営する。さらにアイスクリームやスイーツのコーナーも設け、それらが相乗効果をもたらし、良質顧客の定着を実現している。そして、自らの農業ビジネスを通して農業・農村だけでなく、教育や社会福祉への貢献ができないかと小川は考えている。(以下つづく)
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面白がって生き、失ってこそ与えられる道  | 農業経営者 6月号 | (2008/06/01)

【(有)信州ファーム荻原 代表取締役 荻原慎一郎(長野県東御市)】
経営者ルポ 本格的に農業経営を事業化しようと意気込んでいた矢先、 農機に巻き込まれて片腕を失う事故に見舞われた若き経営者。 運命を呪い、一時は農業をやめることさえ考えたが、 そんな彼を支え、経営者としての歩みを決意させたのは、 ボランティア活動で知り合った若者や家族たちの協力だった。 腕を失ったことによって絆が深まり、力強い発展を始めた農場。 その軌跡は、人生には無駄なことなどないことを教えてくれる。

事故が育てた経営者としての人格



荻原慎一郎(58歳)には左手がない。

41歳の時、ライムソワーに巻き込まれる事故だった。 半年間の入院。事故は二十歳の就農以来続けてきたボランティア活動に一区切りをつけ、農業経営に本格的に取り組もうとしていた矢先の出来事だった。農業をやめようとも考えた。しかし、この事故が本当の意味での経営者になるきっかけを与えた。そしてもうひとつ、荻原の今を作った人生の体験がある。農業が面白くない。だからこそのめり込んだボランティア活動だ。 それまで農業をサボっていたというわけではない。荻原が30代になる1970年代後半から80年代になると、かつて収入の中心だった薬用人参や蚕の価格が下落した。荻原は桑を抜根し、その畑に麦を播いた。

水稲の作付けも拡大した。土地利用型経営への転換である。稼ぎ頭も父から荻原に移っていった。それでも当時の荻原にとって、農業はまだ人生を掛けるほどのものとは思い切れなかった。農業経営の担い手となってはいても、荻原の心が燃える対象はボランティア活動だった。

農業経営者としての荻原の人生を聞いていると、つくづく人生には無駄なことはないと思えてくる。無駄にするかしないか、その違いがあるだけだ。むしろ人や経営者としての人格を育てるのは、損得を超えた努力をどれだけ面白がってできたか、にかかっているのではあるまいか。(以下つづく)
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過疎の中山間地に経営の可能性を見つける  | 農業経営者 5月号 | (2008/05/01)

【高木正美(岐阜県大垣市)】
経営者ルポ 役場勤めという安定職を捨ててまで過疎が進む中山間地での農業に可能性を見出し、家業である水田経営を継いだ元税務課職員。獣害の多発地で15haの水田作業をほぼ一人でこなし、大幅なコストダウンを実践する効率的な経営手法は山仕事で学んだ無駄のない作業習慣から生まれた。地域の担い手として活躍するそんな彼が稲作と林業を通して見つめる地域の未来とは——。

農業経営での成功を信じ役場勤めから転身



高木正美が町役場を辞める時、心に決めたことがある。

「農業で町長より高い車に乗ってやる」である。そして今、高木はトヨタのセルシオに乗っている。本当はベンツにしたかったが、「それはまずい」と父に止められたからだ。

体育教師を目指していたが、それが果たせずに勤めた町役場だった。しかし、その職場が高木を農業へと導いた。町役場では税務課員として働いた。申告指導のために農家を訪ねると、農家は決まって「農業では食ってはいけない」と話した。また、誰もが農業や林業、そして地域の衰退のボヤキを語っていた。

そうした話を聞くうちに、ほとんどの農家が経営の収支など考えていないことを知る。そもそも農業という自らの「事業」を成り立たせようという意識がないのである。

雪で東海道新幹線のダイヤを狂わせる関ヶ原の山中。だが、名古屋市内へ行くにも車で1時間という高木の集落は、トヨタをはじめ兼業先に恵まれている。米価下落でますます収支が合わなくなっていくのに、農家は赤字を出しながら暢気な田舎暮らしを楽しんでいる。

高木は知った。農業が儲からないというが、本当はそれ以前の問題があるのだということを。父親の春雄(74歳)は、農業と山仕事で自分を大学まで出してくれた。そんな父とほかの農家とでは働き方が違い、経営を成り立たせるための努力も違っていた。農家の数が減ることを、農業界や村人たちは農業の衰退と語るが、それをチャンスだと考えた。(以下つづく)
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梁山泊の生命線を握る男。  | 農業経営者 4月号 | (2008/04/01)

【(有)ユニオンファーム 総合企画室取締役室長 農学博士 杜建明(茨城県小美玉市)】
経営者ルポ 「アイアグリ」は、茨城県を拠点とする農業資材の販売会社だ。2000年、玉造和男社長の肝煎りによって、研究農場「ユニオンファーム」が設立される。取締役室長として抜擢されたのが、アイアグリの主任研究員として働いていた杜建明だった。和男が力強い牽引力を見せる太陽だとするなら、建明はそれを陰から支える月だった。国籍は違えど、農業に対する2人のベクトルは、くしくも一致していた。そこに誕生したスペシャリスト集団は、まさに「梁山泊」と呼ぶにふさわしい。

冬の昼下がりである。外の気温は、およそ5度といったところだろうか。つい1週間ほど前にも、関東圏は大寒波に見舞われたばかりだ。しかしハウスの中は、まるで春だった。黄色い小さな花弁をつけた茎を指先で折ると、彼は筆者を見上げた。

「今が旬の野菜なので、とても美味しいですよ。ちょっとかじってみてください。大丈夫ですよ、有機栽培ですから。このまま食べられます」

手渡された緑色の茎を、ひと口かじってみた。とたん、奥歯に自然の甘さがじわりと広がる。 サカタのタネが、わずか数年前に開発した「紅菜苔」という野菜なんだという。そのため、あまり市場には出回っていないそうだ。事実、食料品をよく購入する筆者でさえも、その名を耳にするのは初めてだった。(以下つづく)
※記事全文は農業経営者04月号で
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第45回草取りは、上手くなっては駄目なんだ  | 農業経営者 3月号 | (2008/03/01)

【高松 求(茨城県牛久市)】
経営者ルポ 1930年、茨城県生まれ。1947年、茨城県牛久市の高松家への婿入りをきっかけに、本格的に農業を始める。以後、茨城県を代表する農業経営者として多くの人々に影響を与えた。98年には、「『土の力』を引き出す米づくり、『豚の心』を読んだ飼養技術、『地域の教育』を重視した近隣の子供たちへの竹林の開放などユニークな活動を展開」などを理由に、山崎記念農業賞を受賞。引退した現在も、若い経営者たちや業界人、研究者にヒントを与えリードする指導者になっている。

農業の革新者



かつて、生産者という存在に過ぎなかった日本の農家世帯主の行動は、「経営者」と呼ぶに値せず「単なる業主」であると言われてきた(農業経済学者・東畑精一)。

ところで、食糧管理法は今から13年前の1995年まで存在した。戦時立法(1942年)である食管法は、高度経済成長の時代が過ぎ豊かな市場社会化が実現するだけでなく、コメの供給過剰が常態化した後も廃止されることはなかった。それは農業関係者の利権を維持するためであり、政治の手段だったからだ。農家が農業の「経営主体」になり得なかったのは農業政策の結果なのである。食管法が農家をマーケットから「隔離」し、顧客に出会うことを禁じてきたのである。

それに加えて様々な農家保護政策が彼らから自ら事業者としての自意識を育てるチャンスを奪った。また、多くの農民は、「経営者としての誇り」を自ら問うより、「被害者としての農民」という立場を声高に叫ぶ農業界のイデオロギーに安住する事大主義の中にいた。そして、本誌はそんな農家の存在を「自ら借金させられる農水省の作男」と揶揄してきた。

しかし、そんな時代の中でも顧客やマーケットを自覚す経営者たちは育っていた。そればかりでなく「土に戻し続ける」という農家としてのあるべき姿を追求する中で、「人と土」とのかかわりを「事業者と顧客」、「経営者と社会」に模して語れる農業経営者もいた。イノベーション(革新)をテーマにした今月号の特集に合わせて、すでに現役を引退されているが、筆者に本誌の創刊を動機付けた高松求(77歳)のことを紹介したい。高松の農業経営者としての人生こそ、農業の革新者そのものであると思うからだ。(以下つづく)
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第44回 危機を救ってくれたのは家族とお客様だけだった | 農業経営者 2月号 | (2008/02/01)

【(有)農作業互助会 代表取締役 鈴木博之(福島県大玉村)】
経営者ルポ 1950年、福島県生まれ。1976年、機械の共同利用と作業請負をする任意団体を設立。1984年に(有)農作業互助会を法人化する。1988年に債務清算のため、資産が競売に掛けられそうになるが、農協を訴え、裁判所の和解勧告を得て危機を脱する。以後、コメの生産、集荷、小売事業で経営を再建。現在、低タンパク機能性米の商品開発を軸に、コメの付加価値化販売を図っている。コメの生産面積は自作地・借地含め約13ha。このほか約30haの作業請負を行なう。

経営破綻を乗り越えて



今から20年前の1988年、鈴木博之(57歳)は破産に陥る危機を経験している。76年に鈴木が中心となって組織した農業機械の共同利用と作業請負を目的とする任意団体「大山北部地区農作業互助会」が行き詰まった結果である。組織の機械導入のために、鈴木家の資産が担保になっていたのだ。その清算のための借金返済は、今も続いている。

任意団体の破綻に先立つ84年、鈴木は2農作業互助会を設立していた。鈴木博之・せつ子夫妻、そして川越尚治・志保子夫妻と二夫婦四人の法人である。現在は約13haでのコメ生産と販売、約30haの収穫調整を中心とした作業請負を行なっている。さらに07年12月には、2600万円を投資し、LGCソフトを原料米とする加工場と店舗を兼ねた団子屋を開店した。その加工場の責任者として、もう一夫婦を加えた三夫婦六人の経営に発展させようとしている。

任意団体の経営破綻。競売、裁判、和解勧告、そして経営再建への道のり。冷え切った村内での人間関係。その中で深まっていく家族の絆や、顧客や異業種の人々の支援……。

村社会、農協との軋轢の中での経営危機は、地域や親族を含む人間関係に悩むことでもあった。だが、そんな困難を経験すればこそ、鈴木は農民から本物の事業経営者に成長できたのだともいえる。

農協を訴える



農業高校を卒業して数年、鈴木は運送会社に勤めていた。しかし会社勤めを始めた父に代わり、23歳で農業を始めることになった。34年前のことだ。当時は3haの水田があれば、十分な収入になった。母と二人での稲作であり、田植えや収穫に人手を頼めば、持ち出しも大きくなっていった。若い鈴木はより発展的な農業をしたいと考えた。

機械化が飛躍的に進む時代だった。鈴木も機械化による省力を進めるとともに、作業請負の新事業に取り組みたいと考えた。

農協の勧めもあって、鈴木が農業機械の共同利用と作業請負を目的とする組織を作ったのは、76年のことだ。五戸の農家との共同事業だった。作業を受託する推進(営業)活動は、農協が担当することになっていた。コメの出荷も当然のことように農協だけだった。

しかし、やはり農協の勧めで組織された二つの受託集団との競合で、鈴木らの組織は経営が行き詰まることになる。鈴木ら以外の組織に仕事が流れ、鈴木の組織には仕事が回ってこないのだ。

「恨み言のように聞こえるかもしれないけど、ほかのグループの方が有力者との人脈が深く、農協の後押しが強かったのかもしれないですね。でも、今になって考えてみれば、他人に営業を任せて自分は仕事が来るのを待っているなんて、経営じゃないですよね」と鈴木は笑う。

売上が上がらない、人件費がかさむ、採算が取れない、返済ができない……。追加の融資、そしてその返済も滞り、借金はどんどん膨らんでいった。参加していたほかの農家は、農業をやめるといって組織を離れていった。残ったのは、鈴木と川越の二家族だけになった。

農協は組織の清算を要求し、担保設定されていた鈴木の家屋などを競売にかけると言ってきた。鈴木の親族や近隣の人々を含めて、落札予定者まで裏で話がついていた。その話を聞いて、鈴木は人生観が変わってしまうほどのショックを受けた。首をくくる者がいれば、その縄をなう人間もいるのが世の中なのだと、つくづく思い知らされた。

寝ても覚めても考えることは借金のことばかり。鈴木は当時を振りながら、今、困難の中にいる農業経営者に向けて伝えたいと言う。

「行き詰まった農家は、きっと農協の生命共済のことが頭にあると思う。自分もそうでした。農協とのかかわりが深ければ、5000〜6000万円くらいは共済がかかっているはず。自分もそれを考えながら、高速道路のガードレールに飛び込む夢を見ました。でも、その人なりの解決策は必ずあるんです。死を選ぶなんて、絶対すべきではありません。すべてが後ろ向きにしか物を考えられない時に、情緒的に振舞うことほどの不幸はありませんから。だから第一に、一人で悩まず、まず妻に、そして家族に現状を包み隠さず話すことが大事だと思います」

(以下つづく)
※記事全文は農業経営者02月号で
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第43回 家庭菜園が発掘したブラジル野菜市場 | 農業経営者 1月号 | (2008/01/01)

【C.A.H. 代表 林 治男(群馬県大泉町)】
経営者ルポ 20年間のブラジル暮らしの後、帰国。趣味で始めた家庭菜園のブラジル野菜が職場の日系ブラジル人に好評を博す。あくまで友人へのおすそ分けとして始めたもの。しかし、林の野菜を求める日系ブラジル人があまりにも多く、断るつもりで野菜に値段をつけた。すると、逆に来訪者が一気に増え、専業のブラジル野菜生産者となる。現在、全国の約450店舗に出荷し、売り上げは月1000万円。

故郷の味を求める日系ブラジル人



現在、日本各地に暮らす日系ブラジル人は約30万人。その人たちが故郷で食べていた野菜や果物を日本国内で生産、供給している人がいる。群馬県大泉町を拠点に「C・A・H」という屋号でブラジル野菜を生産・出荷する林治男(60歳)である。出荷にあたってはブランド名として、蕫ブラジルの味﨟を意味するサボール・ブラジレイロという名称を使っている。全国450以上の店舗に届けられる作物の売り上げは、月平均約1000万円。出荷先はブラジル人向けのスーパーやブラジル料理店ばかりではなく、半分は一般のスーパーだという。

日系とはいえ数世代にわたってブラジルに暮らしてきた人々が慣れ親しんできた食材に対するニーズは大きく、生産力をはるかに超える需要がある。さらに、新しい食材に対する関心も高まっている。また、ブラジル野菜の多くはヨーロッパ諸国を原産とするものであり、ブラジル以外の外国人にも懐かしさを感じさせるものであるらしい。ところで、そんな林のブラジル野菜ビジネスは、日系人の妻や同じ職場で働く日系ブラジル人を喜ばせたいと、家庭菜園から始まったものである。 (以下つづく)
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第42回 不肖 宮井、今年も嫌われています | 農業経営者 12月号 |  (2007/12/01)

【(株)西南農場 代表取締役 宮井能雅】
経営者ルポ 読者にもご覧になられた方が多いと思うが、10月20日にNHKで「日本の、これから~どうする?私たちの主食~」という生放送の討論番組があった。そこで確信犯的に悪役を演じる北海道の生産者がいたのをご記憶ではないだろうか。討論番組に出演している生産者のなかでは数えるほどしかいないコメ自由化容認派で、大胆な発言を繰り返していた男。それが今回の主人公である宮井能雅である。

悪役を演じる正直者



「父の代までコメを作っていましたが、今は約100haの水田すべてで麦と大豆を作っています。コメが生産過剰になるから転作をしろといって補助金を出してくれる。それが10aでいくらになるかは、農家の皆さんなら知っているでしょ。国はコメを作らせないために壮大に税金を使ってくれている。だから私はハッピーです。皆さんも転作をしたら?」

農協米価が下がり、稲作農家の経営が危機に瀕しているというのが番組の伏線。番組の演出のせいもあって、出演農家の多くが被害者意識的にコメ農業や農村の困難を語っていたが、宮井のひと言は彼らを一瞬絶句させた。(以下つづく)
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第41回 息子が受け継いだのは
困難に挑戦した親の誇り | 農業経営者 11月号 |  (2007/11/01)

【(有)ピーストータルアドバイザー 家子憲昭
代表取締役 家子秀都(岩手県奥州市江刺区)】
経営者ルポ 経営者ルポ かつて家子憲昭が食管法の中に生きる農民の怒りから始めた
「ライズみちのく」の事業は、憲昭の事業としては破たんした。
憲昭の生きた農業経営者の誇りをかけた挑戦とは何であったのだろうか。
しかし、少なくとも家子憲昭はその生き様において、
長男秀都に人が次代に受け継がせるべき最も価値ある「誇り」を伝えた。
憲昭の父を含めて、家子家三代に受け継がれたものとは何か?(以下つづく)
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第40回 価格を2割下げればイチゴの輸入は止まる | 農業経営者10月号 |  (2007/10/01)

【株式会社ホープ代表取締役社長 髙橋巖 (北海道上川郡東神楽町)】
経営者ルポ 規模の大小ではない。髙橋巖が代表を務める1ホーブは、これからの日本農業、あるいは農業経営の目指すべきひとつの形を示している。

非農家である橋が創業した同社は、夏秋イチゴの育種・生産・流通・販売までを一貫して行ない、さらに全国から冬イチゴを調達して、通年で品質管理されたイチゴの安定供給を実現している。また、コスト低減のために、契約生産者向けの生産資材の販売も行なう。

夏秋イチゴ「ペチカ」を育種したことが成長の発端となり、同社は創業から18年目の2005年8月、ジャスダックに上場を果たした。同社のチャレンジは、米国からの輸入に頼ってきた夏のイチゴ供給に「国産化」の夢を与えたと言える。 (以下つづく)
※記事全文は農業経営者10月号で
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第39回 都市にいる我われだからこそできる農業からの発信 | 農業経営者9月号 |  (2007/09/01)

【古ヶ崎青空塾 渡辺郁夫 (千葉県松戸市)】
経営者ルポ 「介護疲れで死ぬことすら考えていた私にとって、ここに毎日通うことが文字通り救いであり、人生を取り戻すきっかけでした」

農業体験農園「古ヶ崎青空塾」に参加するある婦人が語ったその言葉に渡辺郁夫氏は感激し、そして確信した。この人ひとりのためでも、農業体験農園の仕事を続けていく価値がある、と。

都市に生きる農家が農家であり続け、農地を守ることを通して、人々に必要とされる存在になっている。しかし、農地に関する法律や制度、あるいは人々の無理解も含めて、それを経営として成り立たせていくことは容易ではない。

渡辺氏にとって農業体験農園はボランティアではない。大きな儲けを求めるわけではないが、利益を出せなければ続けられない仕事である。経営を行なうことでこそ、仕事としての誇りを実感し、利用者や地域への責任も果たせるのだ。 (以下つづく)
※記事全文は農業経営者09月号で
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第38回 本州最北の地で挑んだ乾田直藩と父との格闘 | 農業経営者8月号 |  (2007/08/01)

【農事組合法人羽白開発 福士英雄 (青森県青森市)】
経営者ルポ 血気盛んで豪快な経営者を勝手に想像していた。なにしろ、借地、作業受託面積(延べ)をあわせると約130ha。直播栽培の面積だけで16haだ。一法人で行なう直播面積では日本最大級だろう。こんなダイナミックな経営体を、リーダーとして長年引っ張ってきた人物だ。

予想に反し、作業用のつなぎを脱ぎながらソファーに座った福士英雄氏は、端正な顔立ちで、謙虚で穏やかなイメージの人物だった。だがひとたび話しが始まると「格闘」という言葉が何度も出てきた。「格闘」があったということは、その分だけの「挑戦」があったということだ。

本州最北の地で最大面積での直播に挑む



福士氏がこの春まで社長を務めた羽白開発が、直播を始めたのは1994年。「米の値段はそのうち1万円台になる。コストを7000円まで落とせないと稲作はダメになる」――。危機感に駆り立てられて直播栽培に取り組んだものの、うまくいかず2年続けたところで断念した。しかし1999年から再び挑戦。一度ならず二度も始めた福士氏たちを見て、周りの人は「頭がおかしくなったんでねえか」とささやいた。 (以下つづく)
※記事全文は農業経営者08月号で
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第37回 動物園御中。今後はもう餌の心配はいりません | 農業経営者7月号 |  (2007/07/01)

【(有)クローバーリーフ代表取締役社長 西窪 武 (京都府南山城村)】
経営者ルポ 京都府・三重県・奈良県の県境にある京都府南山城村。この、バス会社すら撤退してしまった山奥の山村に、全国で2つとない飼料ビジネスを展開する夫婦がいた。売るものは「動物園の飼料」。無農薬で育てた牧草を刈りとりユーカリ、樫、竹などとともに届けるというのだが……「誰にでもできそう」などと思ったら大間違い。そこには食うや食わずの苦闘から生まれた経営哲学と工夫があった-。

とてつもない急坂を器用に降りていく。坂には一面の孟宗竹。素人の自分には単なる竹藪にしか見えないが……実はここが日本で二人といないプロフェッショナルの「農場」だった。『クローバーリーフ』の西窪武氏が、切り倒した竹から枝葉を刈り、茶色い葉を落としながら話す。

「ジャイアントパンダは1日に20kg、竹3本分くらい食べるね。レッサーパンダは1日に2kgくらい。今は和歌山県の『アドベンチャーワールド』にいる双子のジャイアントパンダとその親の分、京都市動物園、大阪の天王寺動物園のレッサーパンダの分など全国7カ所の動物園に納めてるよ」 (以下つづく)
※記事全文は農業経営者07月号で
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第36回 利根川の向こうに見たパプリカが描く未来 | 農業経営者6月号 |  (2007/06/01)

【(有)Tedy 代表取締役 林俊秀 (茨城県水戸市)】
経営者ルポ もともと国産だった野菜の多くが、後から入ってきた中国産などの輸入品に押されている中、逆に輸入品が切り拓いた市場を国産が追いかける現象が起きている。

ジャンボピーマンとも呼ばれるパプリカがそうだ。そもそもダイエーがオランダから花と一緒に運んできたのが一般普及のきっかけだが、1993年の初輸入以来、業務用を中心に右肩上がりの成長を続け、今や全国で2万4000tものマーケットを持つに至っている。

現在は韓国産を中心としたマーケットが形成されているが、これだけ規模が大きくなってくると、国産がほしいという需要も一定の割合で芽生えてくる。そこへJGAP認証やトレーサビリティの充実といった国産ならではの付加価値で攻勢をかけているのが、茨城県水戸市の(有)テディである。 (以下つづく)
※記事全文は農業経営者06月号で
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第35回 オレたち、第一次産業のワンダーランドを作りたい | 農業経営者5月号 | (2007/05/01)

【(株)グリーブ 代表取締役 (株)アグリ稲庭 代表取締役 藤代弘之 (千葉県印旛村)】
経営者ルポ 高橋尚子が走ったという佐倉の農道では、菜の花が春の訪れを告げていた。一面に広がる田畑の背後には、めっきりと緑を深めた丘陵が肩を並べる。稜線の切れ間から降り注ぐ暖かく優しい陽光が、目に眩しい。

藤代弘之氏が経営する直売所「グリーブ」の駐車場にクルマを滑り込ませたのは、昼食時間をだいぶ過ぎた午後1時も回った頃だった。

「あら? みっちゃんのトマトは入荷してないのかしら……」

野菜売り場で物色中の主婦が、誰に問いかけるでもなく肩をすくめた。古傷の左足を引きずって前へ踏み出した藤代氏が軽く頭を下げる。 「すみません。もう売り切れちゃったんですよ」

「グリーブ」の初代店舗を設立したのは96年だ。その後、遠方の顧客にも対応するため、千葉や東京にも直営店を作った。出荷者からは20%の手数料を取るが、入会金や会費は一切ない。いまや全体の年商は5億円にもなるという。「ヤンチャだった」20代の頃には想像だにしていなかったビジネスに発展していた。(以下つづく)
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第34回 花き産業の先端を拓いた
“雇用できる経営”追求 | 農業経営者4月号 | (2007/04/01)

【(有)三和園芸 代表取締役 鈴木 隆 (茨城県古河市)】
経営者ルポ 中学生の頃、農業で何人もの社員を雇う経営者になると志を立てた茨城県の農家の長男を、まともに相手にする者はいなかった。経営のイメージはあっても、知識もお金も人脈も不足していた若者は、やがて、ホオズキ、さらにデンマークカクタスと出合い、日本でもトップクラスの生産者へと成長する。三和園芸・鈴木隆社長が手探りでつかみ取った成功は、家族経営の農家が経営者に昇華するには、未知なる道を切り開く、起業家魂が不可欠であることを示唆している。

毎年7月9日と10日の2日間、東京・浅草の浅草寺で「四万六千日の日」に開催される「ほおずき市」は、250もの露店が境内に並び、約40万人もの参拝者、観光客が訪れる、夏の始まりを告げる風物詩である。

「四万六千日の日」というのは、その日に参拝すれば4万6000日分の功徳があるとされる特別の日で、1日の参拝で126年分に相当するのだから、一生分どころか、ほぼ二生分にも値する、このうえなくありがたい縁日だ。 (以下つづく)
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第33回 地域を味方につける、サービス業としての農業 | 農業経営者3月号 | (2007/03/01)

【(有)グリーンサービス代表取締役社長 (有)農業総合研究所 取締役社長 新國文英 (福島県会津美里町)】
経営者ルポ 会津盆地は一面雪に覆われていた。待ち合わせ場所のJR只見線・新鶴駅前で待つこと10分。なぜか湘南ナンバーの車に乗って颯爽と現れた(有)グリーンサービス代表の新國文英さんに、ナンバーのことを尋ねてみると、「うん。私、湘南ボーイだからね」と、いたずらっぽい笑顔が返ってきた。新國さんは、むろん生粋の会津人である。

叔父さんの所有物だという“湘南ナンバー”で、新國さんが案内してくれたのは、町営温泉施設の「ほっとぴあ新鶴」だ。施設の一角には、新國さんが中核になっている会津夢農場ネットワークとグリーンサービスが事業主体のプラントが建つ。ここで、このほっとぴあ新鶴、そして学校給食センターから出る食品廃棄物、平たく言えば生ゴミを肥料化しているという。新國さんが言う。

「ウチの会社では肥料化するのに不可欠な米ぬかを提供しています。ここで作った肥料を土に戻して野菜を作り、それらが再びここや給食センターに納められていくんですよ」(以下つづく)
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第32回 自分で作ったものに、自分で値段をつける農業を | 農業経営者 新年合併号 | (2007/01/01)

【(有)鶴岡協同ファーム 代表取締役 五十嵐一雄 (山形県鶴岡市)】
経営者ルポ 庄内米で知られる庄内平野、出羽三山をのぞむ鶴岡の民田地区でコメの直販から、地元の名産・民田ナスの生産と加工、販売。だだちゃ豆の生産などを手掛ける鶴岡協同ファームの五十嵐一雄氏。農業にまったく興味のなかった五十嵐氏が、米国での農業体験を経て、農業の可能性に気付き、自分の夢を形にしていくプロセスはドラマチックですらある。その五十嵐氏を支える明子夫人のマルチな活躍ぶりにも圧倒される。既成にとらわれない自由な発想も、オレゴンの大地から学んだものなのかもしれない。(以下つづく)
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第31回 農業と土木業、ふたつの経営を極める | 農業経営者 12月号 | (2006/12/01)

【(有)フラワーうさ代表取締役 (有)宇佐重機代表取締役 菅原維範 (大分県宇佐市)】
repo0612.jpg 数年前から建設業による農業参入が盛んだ。公共事業が減少するなか、従業員の仕事先を確保したいと参入した企業も少なくないが、成功事例は多くなく、参入には賛否両論がある。今回登場する菅原維範氏は農業から土木に転身し、再び農業に参入した人物。土木と農業の魅力を的確に捉え、相乗効果も上げている。一度外に出たからこそできる農業経営がある。

「花はいつもオレのほうを向いて微笑んでくれる。女性はそうはいかんけどな(笑)」―自分が育てるパンジーを手にとって菅原維範さん(60)は話す。花に向けるやさしいまなざしからは、“花一筋”というイメージが伝わってくる。しかし花との出会いはさほど古くない。

いったん就農したものの、27歳で建設会社を設立。以来、土木の世界に身を置いてきた。そして50歳を過ぎ、再び農業に足を踏み入れたという異色の農業経営者である (以下つづく)
※記事全文は農業経営者12月号で
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第30回 人生には夢が欠かせない農業経営には計画が必要だ | 農業経営者 11月号 | (2006/11/01)

【農業生産法人(有)アクト農場 代表 関治男 (茨城県茨城町)】
repo0611.jpg できたものを売るのではなく、必要とされるものを必要なだけ作る——この産業として当たり前の発想が、ようやく農業の世界に浸透しつつある。契約栽培の概念も、実力ある農家には広く受け入れられている。今後生き残っていくであろう生産者は、ビジネスマインドを備えた経営者。就農してすぐ牛500頭を目標に掲げ、借地と預託肥育でこれを実現した関治男さんに、そのビジネスマインドの源泉を探る。

肉牛190頭、野菜は主に4品目。農業生産法人(有)アクト農場の経営内容はシンプルだ。
「事業展開云々とか、あまり難しいことは考えたことないんですよ」

代表の関治男さんは、まずそう言って笑った。しかし、それで売上1億3000万円というのはありえない話だ。 (以下つづく)
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第29回 親の植えた木を、子が切るとき | 農業経営者 10月号 | (2006/10/01)

【農業生産法人(有)ピーチ専科ヤマシタ代表取締役社長 山下一公(いっこう) (山梨県山梨市)】
repo0610.jpg モモの直販、新規就農者の支援、大手量販店との契約、社債の発行など、次々と斬新な活動を手がけるピーチ専科ヤマシタの山下一公氏。そのベースは、就農当初から一貫している。それは、農業で食べていくと決めた以上は農業に徹するという強烈なプロ意識、そして農協に依存することなく、顧客のニーズを意識して作物を生産するというマーケットに対する戦略である。この志は同じく自立的な農業を目指して昭和を生き抜いてきた父の血なのかもしれない。昭和から平成へと父と子が受け継いできた自立的な農業の一つのあり方を見つめてみたい。

どんな世界であれ、世代交代には、常になんらかの決断を伴う。世代が変わるとは、時代が変わることであり、その時代の変化に対応できるかどうかが世代交代がうまくいくかどうかの鍵になる。

現在、(有)ピーチ専科ヤマシタの社長として、ユニークな手法でモモの生産・販売を手がけている山下一公氏だが、約20年前、先代の父、博光氏(77歳)から農園を引き継ぐことを決めたとき、そこには一つの決心があった。それは父が育ててきた1.3haの農園の半分を占めていたブドウの木を切るという英断だった。

父の育ててきた木を子供が切る。それは一見、新しい父と子の考え方の違いを象徴するようなできごとのように映る。収入源であるブドウは一公氏がすべて伐採。先行きを心配する博光氏は、それを見て「ああ、 煙草銭もなくなってしまうなあ」と思ったという。

自らが手をかけて育ててきたブドウの木を切ろうという気にはなれなれない。しかし、その葛藤が親子げんかに発展するようなことはない。二代にわたる農業への取り組み方を見ていくと、そこにはいや応なく受け継がれている自立した農業へのこだわりが見てとれる。

農協を除名された父から学んだもの



山下家は、山梨市に20代以上続く、伝統ある農家である。一公氏も小さい頃から、父の手伝いをしてきて、大学も自然と農学部を選択した。 「農業そのものをやるかどうかは、まだ決めていなかったのですが、農業に関係する仕事をしたいとは考えていました」と一公氏は話す。  卒業後、季節社員として半導体を扱う会社に入るが、半年後に、農業をやっていこうと決心して会社を辞めた。ただし、本格的に農業を継ぐにあたって、一公氏は父に一つだけ条件を言った。それが「自分が家を継ぐとしたら、ブドウの木を切る」ということだった。 (以下つづく)
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第28回 専業農家仲間の未来のために、集落営農をあえて担う | 農業経営者 9月号 | (2006/09/01)

【松隈ファーム代表 松隈利生 (佐賀県鳥栖市)】
repo0609.gif 佐賀県の東端に位置する鳥栖市。九州を南北に結ぶJR鹿児島本線と、東西に結ぶ長崎本線はJR鳥栖駅で交わる。九州縦貫・横断両自動車道が交わるのも巨大な鳥栖ジャンクション。福岡から長崎、熊本、鹿児島方面に向かうためには必ず通過する物流の要衝だ。周辺には地の利を活かした工業団地も多い。

松隈ファームの松隈利生さんが農地をもつ高田町は、福岡県久留米市との県境近く。筑後川が作る筑紫平野にある。
「佐賀県と福岡県両方の業者が競ってくれるおかげで、農機も資材もほかの地域と比べて安いんですよ」

周辺には、地元の農家の土地と久留米の地権者が持つ土地がモザイク状に混じり合う。そんな環境が松隈さん、および松隈さんが「仲間」と呼ぶ鳥栖の専業農家グループの視野を広げた一因だろう。(以下つづく)
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第27回 農家こそ、生産メーカーになるべきだ | 農業経営者 8月号 | (2006/08/01)

【株式会社アースワーク 代表取締役 松浦助一 (福井県大野市)】
repo0608.jpg 「日本の農業の世界には不思議なことがたくさんあるんですが、そのひとつが農産物に生産メーカーがいないことなんです」アースワークの代表取締役を務める松浦助一は、大きな目をぎょろりとさせて言った。

「例えば、車でも電化製品でも、どんな商品にも、必ず生産メーカーというのがありますよね。でも、農産物の場合、生産メーカーの役割を担っているのは都市部の問屋です。そこで農家から集めたコメに、○○印の○○米みたいな名前をつけて売る。でも、そのコメの生い立ちをきちんと知っているわけではない」

コメの流通・販売をめぐるシステムへの疑問から松浦が立ち上げたのが、無農薬栽培のコメを中心に、その生産から販売までを手がける会社「アースワーク」である。アースワークでは、コメのほかに、無農薬米を使った餅や日本酒、地元の福井県大野市産の里芋なども手がけ、その売り上げ総額は3億に達している。(以下つづく)
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第26回 2代目の挑戦!民間版農家インキュベーションで顧客創出 | 農業経営者 7月号 | (2006/07/01)

【農事組合法人ファームあい代表 倉持康文 (茨城県下妻市)】
repo0706.jpg 農家は減る一途、そういう中で、地域の農業を維持・発展させる動きがビジネス側から出てきた。商が農を“垂直統合”する形で農業進出を果たしている。借地による規模拡大も容易になった。新しいビジネスモデルが農業の近代化を推進し始めた。商系も農家も2代目社長が新しい農業の創造に動いている。発想を変えれば、農家数の減少は新しいビジネスチャンスだ。
2代目の挑戦—親次世代とは農業の経営環境は様変わりした。2代目は何を考え、どう行動しているか。(以下つづく)
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第25回 子供に導かれ、福祉農園という出会いと学びの場ができた | 農業経営者 6月号 | (2006/06/01)

【見沼田んぼ福祉農園代表 猪瀬良一 (埼玉県さいたま市)】
repo0606.jpg 猪瀬良一は、自閉症児の親となったことを契機に、農業を通した障害者の自立と都市近郊に広がる農地の保存と活用を目指す、見沼田んぼ福祉農園を設立した。そこは単なる障害者福祉の場ではない。子供から高齢者までが、農に触れ、互いの関係性の中で現代社会に失われた人の繋がりを取戻し、未来を生み出す学びの場にもなっている。そこには、過剰の時代であればこその、農業の事業的可能性を予感させる何かがある。

「子供に導かれて生きてきたようなものですよ」

猪瀬良一(56歳)が代表を務める見沼田んぼ福祉農園の設立を呼びかける運動を始めて20年。開園して7年になる農園の活動を伝えながら、猪瀬はそう言った。(以下つづく)
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第24回 ずっと向き合ってきた「集落」とこれからも付き合っていく | 農業経営者 5月号 | (2006/05/01)

【島田徳重 (新潟県南魚沼市)】
repo0605.jpg 魚沼コシヒカリ発祥の地でコメを作り続けて30年。その島田徳重さんは品目横断的経営安定対策に伴う集落組織化の動きと、自らの経営をどうバランスをとるか葛藤している。だが、「島田さんのコメが食べたい」と言う顧客の声が島田さんの背中を押そうとしてくれている。政策がどうあれ今までどおりのスタンスで集落と向き合い、自分なりの経営を続けようとしている。(以下つづく)
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第23回 モノでなく、顧客の必要に応える農業経営を目指す | 農業経営者 4月号 | (2006/04/01)

【(有)坂上芝園 坂上 隆 (鹿児島県志布志市)】
経営者ルポ 40haの経営耕地でケール、加工用ジャガイモ、サツマイモ、デントコーンなどを年間約70haに作付けする。生産はすべて企業との契約栽培。年商約1億5000万円。無借金でダイナミックな投資と新たな経営創造に取り組む坂上隆さん。将来は、1000haの経営を目指すと語る坂上さんを、農業取材初体験の筆者が訪ねてみた。

東京に戻り、ファンケルのホームページで、青汁を原辰徳がゴクゴクと美味しそうに飲んでいるコマーシャルを見ることができた。取材したばかりの「坂上ケール農場」で撮影されたものだ。
そういえば、農場でかじったケールの味は甘かった。
ケールといえば、青山のジューススタンドで飲んでいたけれど、苦いというイメージがあったので、とても驚いた。それに、葉と茎と花芽でも味が違う。
なるほど鮮度と栽培が大事なのだとよくわかった。

売上げ、約1億5千万円



本誌・昆編集長に連れられて、鹿児島県志布志市の2坂上芝園を訪問。専務取締役の坂上隆さんを紹介された。父上の坂上平氏は芝栽培で成功した。14年前に家に戻った二代目の坂上さんは、父親とは異なる新世代の農業経営者として新しい経営の形を作り出している。

坂上芝園の所有農地は2haと少し。でも、近隣の農家から約40haの土地を借り、ケール、サツマイモ、ジャガイモ、デントコーンなどを輪作し、年間約70haの作付けというのが坂上農園の生産規模だ。

昨年度の作付けは、
●ケール:約38ha
●加工用ジャガイモ:約10ha(ポテトチップ・ジャガリコになる)。
●サツマイモ:約10ha(焼酎加工用に出荷)
●デントコーン:約10ha(畜産・酪農家に出荷)。
●芝:30a程度。

社名こそ「坂上芝園」だが、芝の作付けは、昔からの関係でやめられない30a程度。

従業員は約20名。20代〜40代を中心に管理仕事を任せられる人材が数名おり、その他のスタッフは、夏場は茶園で働き、冬場に坂上さんのところで働く季節雇用者として定着している。

農業生産法人としての売上げは

「わずか1億5千万円程度ですよ」と坂上さんはこともなげに言う。

そう言われても、編集長に教えていただいた「農産物販売金額規模別経営体数」という統計を見ると、その金額を上げる農業経営は、全国でも0・4%以下に過ぎない。しかも、畜産などではなく畑作物の生産だけでこの数字。しかも無借金経営は素晴らしいよと編集長。 (以下つづく)
※記事全文は農業経営者04月号で
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第22回 これからの農業は"企画力"の勝負 | 農業経営者 3月号 | (2006/03/01)

【谷農園 小倉和久 (三重県伊賀市)】
repo0603.jpg 「農家っていうより、実業家とか経営者とか言われるんですよね。あとは運動家とか(笑)。僕のやっていることは、理解しにくい人にはわかりにくいかもしれません」と小倉さんは苦笑する。

たしかに、NPO法人を立ち上げたり、休耕地にナバナを植えてナタネ油をバイオディーゼルに使用する「なばなプロジェクトネットワーク」を立ち上げたり、森の再生を訴えて「ゆうきの森」という圃場を用意し、果樹を植えてもらうオーナー制、「みのり」プロジェクトを始めたりと、"運動家"のようでもある。(以下つづく)
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第21回 農村が最先端に躍り出る日 | 農業経営者 2月号 | (2006/02/01)

【(有)新福青果 新福秀秋 (宮崎県都城市)】
repo0602.jpg その語調は、あけすけなぐらいに明るく、言葉が渦を巻くようにあふれ出す。

「面白いよ、農業は。こんな面白い世の中が来るとは思ってなかった。技術は日進月歩。情報の差が収益の差として表われる。戦略的には難しくなったし、考えることも多くなった。だけど、ハードルが高いから楽しいんだよ」(以下つづく)
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第20回 逆転の発想から、攻めの農業へ | 農業経営者 1月号 | (2006/01/01)

【片山りんご有限会社 片山寿伸 (青森県弘前市)】
repo0601.jpg 1997年のリンゴ価格の大暴落をきっかけに、リンゴの海外輸出をめざした片山寿伸氏。氏は日本と外国では好まれるリンゴのタイプが違うという文化的背景を追い風に、イギリスと中国へのリンゴ輸出を可能にした。この輸出事業を通じて日本で初めてユーレップギャップを取得した氏は、日本の農家を守るために日本版GAPを早期に設立することの必要性を説く。「いずれGAPを取得した中国野菜が日本に流れ込んできたら、私は中国でリンゴつくるしかなくなりますよ」と笑いながら語る片山氏の言葉には冗談とは思えないリアリティがある。(以下つづく)
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第19回 島にブランドを取り戻せ | 農業経営者 12月号 | (2005/12/01)

【上村ファーム 上村英樹 (鹿児島県知名町(沖永良部島))】
repo0512.jpg 鹿児島県の沖永良部島は「新ジャガ」、早出しメークインのブランド産地として有名だ。しかし、今、ジャガイモ生産者たちの意欲は必ずしも高いとは言えない。農産物のブランドとは何か。かつて沖永良部の新ジャガは市場で話題になり、品薄でブローカーたちが買いに走った。そしてそれによる高値は生産者を喜ばせた。しかし、やがて一時の高値に浮かれた産地はその価格にあぐらをかくようになる。その現状を上村英樹は、選ばれるに足る産地であり続けるための誇りや自負を忘れていると見る。沖永良部で新しい産地ブランド作りに取り組む上村の思いを伝えたい。(昆吉則)(以下つづく)
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農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

第18回 語り、伝え、消費者に 媚びない農業を | 農業経営者 11月号 | (2005/11/01)

【新開玉子 (福岡県福岡市)】
repo0511.jpg 専業農家の主婦・新開玉子さんは、1999年、補助金を一切受けずに女性だけで直売所を開設。年商2億円の店に育てた。コンセプトは“産地から心をこめて“。「今までの農家は、下を向き腰を痛めて土を耕してきたけれど、都会のひとの心は耕してこなかった」という新開さんの言葉には、彼女が長年抱き続けてきた農業への思いが込められている。

作るものに責任持てないなら農業をやめたほうがいい



すっかり都市化が進んだ福岡市南区で、今や数少ない専業農家となった新開家。地域で“耕すおばちゃま“とも呼ばれる新開玉子さんは、やさしい笑顔が印象的な女性だが、こと農業の話になると、その口からはシビアな言葉が飛び出す。(以下つづく)
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農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

第17回 新規就農だから見えた経営の哲理 | 農業経営者 10月号 | (2005/10/01)

【杉山経昌 (宮崎県綾町)】
repo0510.jpg 「小規模・効率性・悠々自適」――。こんなポリシーを掲げる経営者が、宮崎県綾町にいる。脱サラして観光果樹園を開業。かつて国際ビジネスで鍛え上げた理論とマーケティング感覚、情報化を駆使し、安定的かつ「最適」の経営を実現した。他産業からの参入者だからこそ、従来の農業のあり方には厳しい目を向け、その矛盾点に警鐘を鳴らす。

取材の直前、宮崎県には台風14号が接近しつつあった。日程の変更をお願いしようと電話をかけると、杉山経昌は用事のある日を挙げ、それ以外なら「いつでもかまいません」といった。

「うちは(台風が)持っていくなら全部持っていってくれっていう考え方でやってますから」
歯切れのいい口調と明快な言葉が、受話器を通じて耳の奥に残った。(以下つづく)
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第16回 土をパートナーに、技術を誇りに | 農業経営者 9月号 | (2005/09/01)

【伊藤栄喜 (岩手県北上市)】
repo0509.jpg 「このルポに登場する経営者は“特殊”か“特別”な人たちだよ。俺はね、普通の農家なんだ。有機・無農薬栽培も、際限のない利益追求もしない。人間だから欲はあるけど、ほどほど主義でいいんだ」

謙遜か、それとも、ある種の自負なのか。伊藤栄喜はそんなふうに自らを語ると、顔中に笑みを広げた。

「四十にして惑わず」というが、伊藤栄喜の農業経営は40歳から始まった。水稲から転作受託へと規模を広げ、機械力を駆使して地域の農地を守り続ける。採種圃の管理にプライドを見出し、新技術の実用化にも積極的に取り組む。常に前進し続ける姿勢と、着実さ。その両方を備えた経営者だ。(以下つづく)
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農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

第15回 ハーブを「必然」にした40年 | 農業経営者 8月号 |  (2005/08/01)

【(有)シモタ農芸・(株)M&Yシモタファーム社長 霜多増雄 (茨城県取手市)】
repo0508.jpg 霜多増雄は国内有数のハーブ生産者。約40年前に初めて欧州に渡り、食の洋風化を必然と見て、需要を掘り起こした。料理界には幅広い人脈をもち、地域の枠をも軽々と越える。経営の根本に置くのは、消費者への思いと農業を自然界とのかかわりでとらえる科学の視点だ。

舌鋒は鋭く、時に辛らつな刺激を帯びる。

「栄養とおいしさは両立する。野菜本来の機能性、価値を消費者に届けるのが百姓の使命でしょう。よく『有機栽培で付加価値を』なんて安易に言うけど、食べる価値のないものだったら、有機だろうが何だろうが付加価値なんてないんだよ」(以下つづく)
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第14回 マルハナバチに託す部会3代、夢の系譜 | 農業経営者 7月号 |  (2005/07/01)

【平取町野菜生産振興会トマト・胡瓜部会部会長 糸屋新一郎 (北海道平取町)】
repo0507.jpg 平取町は北海道日高山脈の西側、沙流川流域の肥沃な地帯にある。比較的温暖で降雪は少なく、アイヌ文化が栄えて、明治以降は米どころとなった土地だ。糸屋新一郎はここで稲(栽培面積4.6ha)とトマト(ハウス28棟)を育てる。昨年までは同町米麦改良協会会長、今年からは野菜生産振興会トマト・胡瓜部会長だ。42歳ながら地域のリーダーだ。(以下つづく)
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