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編集長コラム | ![]() |
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先進国日本の農水省の役割は… | 農業経営者 8月号 | (2001/08/01)
【「農業経営者」編集長 昆 吉則 -profile
】
『これで国産野菜が救えるか?』と題された土門剛氏の連載『農と食産業の時々刻々』(今月号28頁)をお読みいただきたい。先頃農水省が出した『野菜政策の展開方向と対策について』というレポートに対する批判を展開している。筆者も大筋においては土門氏の批判が当を得たものだと考える。基本的にとは、大小様々な農業経営者自身の自助努力による経営改革なしには日本農業は救われないということ。そして構造政策の必要性である。
さらに言えば、お役人が考えるレベルの経営モデルや経営計画などということを現実の農業経営者に押し付けるような時代は終わっているのだ。現代の農業経営者たちはそんな無知蒙昧な愚民でもなく、そんなことは農業経営者たちや関連産業人の自助努力に任せておけばよいのである。直売所で野菜を売るオバアチャンたちを含めてマーケット(お客様)に気付いた人々が農業を変えていくのである。むしろ、行政や政治の過剰な干渉や指導こそが、農業界の改革すべき組織や商慣行を温存させ、農業改革のパワーを削いでいるとすら言うべきなのである。
そして、農業経営と経営発展の可能性を産地あるいは集落という単位に限定すべきではない。主体意識を持った農業経営者の存在を前程に、すでに多様な形で地域や業種を越えて結びつくネットワークが新しい農業の可能性を切り開いている。本誌読者の間でも、山形県、茨城県、宮城県、福井県の読者が食品加工メーカーや産地卸と共同して、さらに農機メーカーからの機械の貸与や技術指導を含む協力も得ながら進めてきた経営実験が成果 を上げ始めている。さらに、始まったばかりであるが、農通インフォマートでの取組みも各地の農業経営者たちがネットワークを組んだマーケットへの参加であると我々は理解している。
本誌自身、読者と共にこうした取組みを通して感じてきたことは、前向きな農業経営者たちほど地域や既存の組織から、必要な情報や指導を得ることができないでいることである。しかしその結果 、彼らは地域や業種の異なる目線の揃う人々と強い共感で結ばれていったのだ。
これからの時代に農水省の役目として期待されていることは、これまで農民が市場社会に参加していくことを阻み、隔離してきた様々な障壁を取り除くこと。そして、未来から逆算する今日を作り出そうとしている農業経営者を励ますことであり、そのための情報提供であり施策である。
各地の農業経営者たちは、多様な形でその経営を発展させていくであろう。そこに、いまさら農水省が正解などを示す必要はないのである。それが先進国日本の農業の姿なのではないか。そして、直売所のバアチャンや行商で頑張る夫婦農家も大規模生産者もその可能性を差別 する必要などないのである。
海外農産物の輸入増大によって亡びていく産地や経営が成り立たなくなる生産者も出てくると思われる。急激な市況の変化に対応するための配慮は必要かもしれない。しかし、海外農産物の輸入増大が引き金になっているかもしれない経営危機とは、元はと言えば産地、そして彼の経営努力の問題ではないのか。怠慢な人物を救うために伸びる芽を摘むようなことは、もういい加減にすべきなのだ。むしろ、そうした脆弱な経営体質を許してきたこれまでの農業政策や農業利権の温存こそ問われるべきなのである。そして、仮に農水省の後ろ盾がなくとも、自らの永続性のために農産物消費に関わる業界人が『産地』ではなく『経営者』を探し出し、両者が食べる人々への共同の責務を追求すべき時代なのである。
本誌自身、読者と共にこうした取組みを通して感じてきたことは、前向きな農業経営者たちほど地域や既存の組織から、必要な情報や指導を得ることができないでいることである。しかしその結果 、彼らは地域や業種の異なる目線の揃う人々と強い共感で結ばれていったのだ。
これからの時代に農水省の役目として期待されていることは、これまで農民が市場社会に参加していくことを阻み、隔離してきた様々な障壁を取り除くこと。そして、未来から逆算する今日を作り出そうとしている農業経営者を励ますことであり、そのための情報提供であり施策である。
各地の農業経営者たちは、多様な形でその経営を発展させていくであろう。そこに、いまさら農水省が正解などを示す必要はないのである。それが先進国日本の農業の姿なのではないか。そして、直売所のバアチャンや行商で頑張る夫婦農家も大規模生産者もその可能性を差別 する必要などないのである。
海外農産物の輸入増大によって亡びていく産地や経営が成り立たなくなる生産者も出てくると思われる。急激な市況の変化に対応するための配慮は必要かもしれない。しかし、海外農産物の輸入増大が引き金になっているかもしれない経営危機とは、元はと言えば産地、そして彼の経営努力の問題ではないのか。怠慢な人物を救うために伸びる芽を摘むようなことは、もういい加減にすべきなのだ。むしろ、そうした脆弱な経営体質を許してきたこれまでの農業政策や農業利権の温存こそ問われるべきなのである。そして、仮に農水省の後ろ盾がなくとも、自らの永続性のために農産物消費に関わる業界人が『産地』ではなく『経営者』を探し出し、両者が食べる人々への共同の責務を追求すべき時代なのである。
