執筆者一覧

農業ビジネス
農業経営者twitter
デジタル見本誌

アーカイブ
2019
11 09 08 06 04 03 02
2018
12 10 08 07 04
2017
12 10 08 06 05 03 02 01
2016
12 11 10 07 06 04 03 02
2015
12 11 10 09 08 07 06 04 03 02
2014
12 11 10 09 07 06 05 03 02 01
2013
12 11 10 09 08 07 06 04 02
2012
12 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2011
12 09 08 07 06 05 04 03 02
2010
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2009
12 11 10 09 07 06 05 04 03 02 01
2008
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2007
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 01
2006
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2005
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2004
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2003
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2002
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2001
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2000
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
1999
12 11 10 09 08 07 06 05 04 02 01
1998
12 11 10 09 08 07 06 04 02
1997
12 10 08 06 04 02
1996
12 10 08 06 04 02
1995
12 10 08 06 04 03
1994
12 09 06 03 01
1993
10 07 05
文字のサイズ
中
大

HOME > 編集長コラム  >それでも“シャチョー...

編集長コラム

それでも“シャチョー”と呼ばれたいか? | 農業経営者 3月号 |  (2001/03/01)

【「農業経営者」編集長 昆 吉則 -profile
日本人が貧しくとも好景気や未来への予感に浮かれることのできた昭和30~40年代。東宝「森繁社長シリーズ」の三木のり平や「無責任シリーズ」でサラリーマン植木等が連発した“シャチョー”。あるいは一昔前、場末の盛り場でキャバレーのアンちゃんが酔客の呼びこみに使うセリフも“シャチョー”だった。のり平や植木がヘツライの情を込めて使った「社長」では最初の母音にアクセントが付いていた。一方、呼びこみのアンちゃんの場合には“ねェー、シャチョー、シャチョー”と二度呼びにするのが常だった。その言葉の中には、安サラリーマンがおこぼれに預る好運を期待しつつも裏では舌を出して見せる大衆の健康な笑いがあった。でも、そこには苦労の中で成功を勝ち得た者に対する尊敬のニュアンスも込められていた。であればこそ、人を乗せて落すセリフとして有効だったのだ。しかし、今やサラリーマンにとって花見酒など夢のまた夢、せいぜい安飲み屋か屋台でクダ巻くボヤキ酒、客引きの方が身につまされてしまうご時世。キャバレーが姿を消し、当時のアンちゃんたちも若者向けのキャバクラやクラブ(語尾上がる)の黒服に職場を追われてしまった。ついでに言えば、松竹「寅さんシリーズ」で寅が呼んだ「たこシャチョー」は無責任なフーテンだから言えたストレートなカラカイだった。さくらの亭主が語る民主商工会風の真面目さがチョット鼻についたけど、そこにはいつも資金繰りに苦労している零細自営業者の一所懸命さに対する愛情が込められていた。さらに、バブルの時代になると宮尾すすむが“シャチョー”という言葉に身振りを加えてヘツライ表現のバラエティーを使い分けしていたのを若い人でも覚えているだろう。しかし、その頃になると人々の羨望と妬みを消費するメディアとしてのTVや女性週刊誌がうさんくさい“青年実業家”たちを登場させ、バブル崩壊後のTVに映し出される無責任な大企業経営者たちの醜態を見せられることで、人々は「社長」「経営者」という言葉にイカガワシサや軽蔑のようなものを感じ始めるようになった。それはかつての左翼が憎しみを込めて使ったニュアンスとも違っていた。
こんなことを書き連ねたのにはわけがある。今、農業界では目立つ経営者がいると農林行政関係者が盛んに「法人化」を勧めている。多くは、法人化することでの税法上のメリットの解説とともに大型融資の斡旋がセットになって「指導」されている。その意図は理解しながらも、なぜか僕にはその役人や農業関係者たちの姿にのり平や植木の上目遣いの顔がダブって見えてしまうのだ。にもかかわらず農業関係者にとっては自らの存在の根拠である、守るべき「弱者としての農民」という論理が農業界においてすら破綻すると、「事業的農家」をあらためて特別な存在として神棚に祀り上げ、あらためてそこで僕を含め他農業関係者の居場所作りが始まっているかのように見えてしまうのだ。相変わらずの愚民啓蒙思想の下で。

事業経営には生業、家業、事業という形態の違いや発展過程がある。また、事業の永続的発展と成長を考えるならシステムの問題として法人化や株式会社化が望ましいのは言うまでも無い。でも、それはそれぞれの法人化(しないことを含めて)の目的や都合を考えればよいだけで、ましてや「生業」より「事業」、「個人経営」より「会社」、あるいは「一家の主」より「社長」の方がエライわけでは断じてない。事業規模を拡大させるに伴って自覚的にも他者の目においても社会的責任が重くなるというだけであり、その本質は何も変らないのだ。

もちろん、税法上の問題、取引先との関係、金融機関の信頼や資本の調達、事業継承や人の採用等々、農業経営を法人化するメリットは多々ある。でも、単に人にそそのかされて法人化のメリット・デメリットを秤に掛けている人なら、あなたには「会社」を作る前に考えるべきことがあるのではないか。会社は利益を追求する手段であるとともに、社会に向けて必要とされる存在を自らの責任で生み出すことなのである。これまでのように多くの農民が気付いてすらいない「農家であるという利権」にあぐらをかき「権利」を主張することではなく、世間では当たり前の事業経営者としての「責任」を果たすということなのだということを。単に税負担を安くするために“法人成り”することでは済まされないのだ。あなたはそれでも“シャチョー”と呼ばれたいか?

もうそんな時代ではない。今や、人々は企業や会社の意味をあらためて問い直しているのである。その存在理由や役割を。企業が社会に向けて提供する商品やサービスが顧客の支持を受け、それ故に売上が伸び、利益が上がる。それを通して株主に配当をして労働者の生活を守る。そしてその利益の中から税金という形で国家や自治体への責任を果たす。そんな古典的な意味での企業や会社の役割を果たすだけの会社で良いのか、と。それは、社会的に影響力の大きな大企業だけの問題としてではない。大小にかかわらぬ企業経営者たちだけでなく、そこで働くひとり一人の職業人たちが、利益の追求だけでは語り得ない会社と己れの存在理由や責任やそれを行うことの意味を自問し始めているのだ。その上で必要とされる存在でなければ存続できないという危機感と共に。

そんな現代の日本においてであればこそ、農業で会社を経営する者ならではの責務と誇りについて思いを巡らすべきではないか。会社にするから顧客や後継者や若者が寄ってくるのではない。利益は大きければ大きいほど良いだろう。しかし、それは結果であり未来への手段に過ぎない。そこで得られる利益に対する健康な欲望を含め、その事業を通してあなたが果たそうとする夢の大きさやその仕事に対する誇りの有無こそが問題なのではないだろうか。
Posted by 編集部 08:30

このエントリーのトラックバックURL:

コメントする