執筆者一覧

農業ビジネス
農業経営者twitter
デジタル見本誌

アーカイブ
2019
11 09 08 06 04 03 02
2018
12 10 08 07 04
2017
12 10 08 06 05 03 02 01
2016
12 11 10 07 06 04 03 02
2015
12 11 10 09 08 07 06 04 03 02
2014
12 11 10 09 07 06 05 03 02 01
2013
12 11 10 09 08 07 06 04 02
2012
12 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2011
12 09 08 07 06 05 04 03 02
2010
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2009
12 11 10 09 07 06 05 04 03 02 01
2008
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2007
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 01
2006
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2005
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2004
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2003
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2002
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2001
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2000
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
1999
12 11 10 09 08 07 06 05 04 02 01
1998
12 11 10 09 08 07 06 04 02
1997
12 10 08 06 04 02
1996
12 10 08 06 04 02
1995
12 10 08 06 04 03
1994
12 09 06 03 01
1993
10 07 05
文字のサイズ
中
大

HOME > 編集長コラム  >時代の変化は最終コー...

編集長コラム

時代の変化は最終コーナーに | 農業経営者 1月号 |  (2003/01/01)

【「農業経営者」編集長 昆 吉則 -profile
時代がいよいよ曲がり角を曲がり切ろうとしている。それにあわせて農業政策の変更も最終コーナーにさしかかってきた。平成11年の農業基本法(「食料・農業・農村基本法」)改正。昨年4月には、BSE問題や食品の虚偽表示問題等の発生という事態の中で、“消費者に軸足を移した”と断りを入れた新しい農林水産行政指針「『食』と『農』の再生プラン」が発表され、さらに年末には、“水田農業政策・米政策の大転換を図る”ために「米政策改革大綱」が策定された。

印象的だったのは、減反の配分やその管理という農業利権がかかわっているのにもかかわらず、自民党農林部によるさしたる抵抗も無いまま、与党・自民党が「米政策改革大綱」を通したことである。
時代はほとんど角を曲がってしまった。にもかかわらず、それに先立って進められてきた「生産調整に関する研究会」での農協の抵抗や、その後の各県農協での“抵抗集会”を見るにつけ、時代に取り残されていく農業・農協界を感じざるを得なかった。官僚たちがこれまでのパートナーであった農協を見限り、衣を着替えてしまったのに、未練たらしく“捨てないで!”と叫ぶ農協の姿が目立った、と言ったら怒られるかな。

しかし、農業界が考えるほど世間はその変化に注目を向けてはいない。なぜなら、それは、あまりにあたりまえだからだ。

農水省が「『食』と『農』の再生プラン」において、わざわざ「消費者に軸足を移した農林水産行政を進めます」などというあたりまえのことを宣言したのも、これまでの農林行政が時代の変化を無視して農業界や農業関連業界に軸足を置いて行われてきたことへの反省であり、敢えてそれを宣言せざるを得ないほど、国民の批判が大きくなったからである。

もとより農業は“食べる者”のためにある。生産者だ消費者だと言う前に、共に“お天道様の消費者”だからだ。それを、「生産」と「消費」とに別け、分断して管理することで自らの位置を守ってきた農林水産行政の論理が破綻したと言うべきなのである。

まさに、今月号のルポの主人公である矢久保英吾氏が語る“米の呪縛”に囚われた農業の世界だけが浦島太郎になっていただけなのだ。

「再生プラン」が、食品流通における信用恐慌とでも言うべき不安を招来させているBSE問題に端を発したのは象徴的であった。それをきっかけにして、メディアは様々な虚偽表示にかかわる事件を告発しはじめた。中国産野菜の農薬残留問題も、当初はそれで漁夫の利を期待した我が国の農業界であったが、無登録農薬事件が明るみに出るにいたって、“国産農産物は安心”という“幻想”も壊れてきている。それを放置してきた政治と行政の責任は言うまでも無いが、保護と利権とお目こぼしの上で、自ら事業経営者としての責任を問うことをしてこなかった農家の在り様や関連業界の自己改革能力が問われているのである。

問われている “農業問題”とは、農家や農業界がどう生き残るかではなく、我々が食べる者のために必要とされる存在であるか否かということなのだ。でなければ、我々の誇りある未来は無い。また、“農業の持つ環境保全機能”だとか“地産地消”等と言う議論を農業界が自らの存在理由として語るのも、農業を続けようと思えばこそ、あたりまえのことなのであり、消費者に恩を着せて声高に言うことでもないだろうと、僕は思う。こんなヌクヌクとした農業界が前提として、そんなお題目が貿易交渉の議論として諸外国は納得してくれるものなのだろうか。むしろ、これまでの我が農業界は、どれだけその努力をしてきたのかを自ら問うべきだ。

農業人がもうそろそろ“士農工商”の論理から開放されること。自らの責任で時代に必要とされる存在になるために我々一人ひとりが自らを問い直すことの中からしか望むべく未来は生まれない。人それぞれの農業であればよいであり、日本のいう豊かな社会の中であれば、農業には多様な可能性があるはずだ。また、今年も同じことを書いていく。
Posted by 編集部 08:30

このエントリーのトラックバックURL:

コメントする