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編集長コラム

農業社会とコンプライアンス | 農業経営者 3月号 |  (2003/03/01)

【「農業経営者」編集長 昆 吉則 -profile
最近、「コンプライアンス(Compliance)」という言葉をよく耳にする。英語の原義は「(命令に)従うこと」。特に企業活動における「法令を遵守すること」あるいは「自社の都合で嘘をつかないこと」という意味に使われる。言ってみればあたりまえのことを徹底していくための企業のあり方が問題になっているわけだ。さらに、それを徹底するために、自ら倫理基準を明確化するとともに社内外に役職員がそれを犯すことを防ぐ教育や監査の体制を確立しようということらしい。わざわざカタカナ英語を使わねばならないのか?適当な日本語はないのか?と言いたいところだが、考えてみるとそれは伝統的な日本人の論理の中からは出てこない考え方なのかもしれない。
コンプライアンスという言葉が使われ始めたのは、アメリカでは1960年代、日本でも80年代からだそうだ。特に90年のバブル崩壊後に企業不祥事が相次いで表面化する中で、証券・銀行・保険などの金融関連業界を中心に、それが企業活動の信用にかかわる危機管理のテーマとして認識されるようになったと聞く。しかし、アメリカの巨大エネルギー企業エンロンが不正経理を理由に破綻したのは2001年暮れであり、雪印食品の倒産も2002年2月のことである。語られてきたという割には、それも空念仏だったと言わざるを得ない。それがここ一、二年、“流行語”のように我々の目に触れるようになったのは、大企業や名門と目された企業が自ら発した“嘘”ゆえに、あっと言う間に投資家や顧客を失い倒産に追い込まれたからだろう。スネに傷を持つ自覚があればこそ、明日は我が身と危機管理の問題として真剣にならざるを得ない企業が増えたというのが真相であろう。

人々は企業活動どころか政治や行政の言葉や振る舞いの中にある“嘘”の臭いを感じている。そして、政治や行政あるいは企業倫理に対する信頼の崩壊が、現在の社会の不安や経済の不振の原因になっているとすら言えるのだ。 日本人は、外国人から見れば非合理と思えるほどに、国家や組織に強い信頼を寄せてきた国民だと言える。しかし、こうした日本人の組織や共同体に対して自己同一化しやすい性向(個人主義の未確立)は、反面では、組織や集団に自己を埋没させることで自らの倫理や道徳的規範を容易に捨て去ってしまうことにつながる。そして、様々な贈収賄事件あるいは企業や組織の不正が露見すると、疑惑の本人や最高責任者ではなく中間管理者や担当者レベルの者が自ら責めを背負いあるいは一人思い詰めて自殺してしまう。それは、逆に個人に対して過剰で非論理的な自己責任を背負わせているということでもあるのだ。

自己責任において自らの行動基準を定めるようになることは、現代の日本人の課題でもある。逆に、そうした日本人の社会であればこそ、行政や企業や様々な組織の責任者たちは、より高い倫理性が求められてきたはずなのであるが…。

そういう意味で、日本であればこそ組織や社会のシステムとしてこの「コンプライアンス」の実効性が問われるのだ。大企業の経営者やその職員に関する企業倫理のことばかりが話題にされているが、“商売”としての民間企業は、容易に顧客や市場に裁かれるのである。むしろ、法律によってその存在が保障されている行政や団体組織あるいはその構成員たちこそ、コンプライアンスについて自ら問いを深めるべきなのである。地縁的関係が組織の中に入り込む要素の高い、地方行政や農協組織などの村々の団体組織はさらにコンプライアンスが問われねばならないのではあるまいか。

そして、自らの組織の“正義性”を信じて疑わぬ人々、あるいは、ただ職務に忠実であることの他に自らの存在を問う想像力のない人々が、自らの“正しさ”を信じるが故に、その商売や組織運営の中で顧客や取引先や組合員を欺いているという事実に鈍感になっていることはないか。自らの職務に誇りを持ち、より良きことの実現のために働こうとする者であればこそ、性悪論に発した自己認識と自己規制の意味を考える必要があるのだ。
Posted by 編集部 08:30

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