執筆者一覧

農業ビジネス
農業経営者twitter
デジタル見本誌

アーカイブ
2023
07
2022
12 07
2021
08
2020
12 08 04
2019
12 11 09 08 06 04 03 02
2018
12 10 08 07 04
2017
12 10 08 06 05 03 02 01
2016
12 11 10 07 06 04 03 02
2015
12 11 10 09 08 07 06 04 03 02
2014
12 11 10 09 07 06 05 03 02 01
2013
12 11 10 09 08 07 06 04 02
2012
12 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2011
12 09 08 07 06 05 04 03 02
2010
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2009
12 11 10 09 07 06 05 04 03 02 01
2008
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2007
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 01
2006
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2005
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2004
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2003
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2002
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2001
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
2000
12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01
1999
12 11 10 09 08 07 06 05 04 02 01
1998
12 11 10 09 08 07 06 04 02
1997
12 10 08 06 04 02
1996
12 10 08 06 04 02
1995
12 10 08 06 04 03
1994
12 09 06 03 01
1993
10 07 05
文字のサイズ
中
大

HOME > 農業経営者コラム  > ヒール宮井の憎まれ口...  >農地解放を再考す ...

農業経営者コラム | ヒール宮井の憎まれ口通信

農地解放を再考す | 農業経営者 7月号 |  (2008/07/01)

【宮井 能雅 -profile
経営者コラム

宮井家3代の歴史


香川県生まれで国鉄マンの祖父は北海道に入植し、戦前80haの地主であったが、戦後の農地解放で30haになった。昭和41年に祖父が他界した時は、私の父親は長男ではあったものの、諸般の事情で5haからのスタートだった。

この面積は当時の平均であった。その後、血のにじむような努力? の結果があり、現在の嫌われる評価がある。

まだ私が25歳くらいの時、知り合いに仕事のヘルプをお願いするために電話で話していたところ、受話器の向こうで「宮井の仕事は手伝わなくてもいい」と話す声が聞こえた。私はすぐ丁重に電話を切った。

最初は「何かまずいことでも言ったのか?」と考えたが、思い当らなかった。 後で知ったが、その家族は祖父の時代の小作人だったそうだ。多分、時はめぐり再び私に使われるとでも思ったのだろうか。

同じころに、こんなこともあった。その人は当然、私が誰だか知っていたが、決して目線を合わせようとしなかった。言葉も少なく自分の前から早く消えてくれとでもいうような雰囲気だった。あまりにも不自然な態度だったため、やはり父親に聞いてみた。

「あ〜、あの人は……」

なんでも祖父の時の小作人で、その時はまだ若くて100%イエスマンだったそうだが、戦後、手のひらを返したような態度に豹変したそうだ。父親の話によると営農に関して十分すぎる援助を行なったと言っていたが、自分は逆の立場になりたくはないと思った。

そして小作人根性という言葉を知ったのも、そのころであった。

パイオニア精神がある?この北海道であっても、戦後のドサクサで土地を得た者、特に小作人の立場を利用して法的に土地を取得した者の子孫は、その事実も知らされず、土地や財産を失うことを極端に恐れている。その様は正直、醜さを感じる。

戦後、法的に平等になったとはいえ、本当の意味でのライバルと言える者を探す努力はムダと理解するのも25歳のころだった。(以下つづく)
※記事全文は農業経営者07月号で
Posted by 編集部 12:28

このエントリーのトラックバックURL:

コメントする